HISTORICAL PERSON · 1612年没

ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)

神聖ローマ皇帝・ハンガリー王・ボヘミア王。スペインで教育を受けて敬虔なカトリックとなり、プラハで科学文化芸術を保護した。政治能力に欠け、弟マティアスに王位を譲り、三十年戦争が勃発する一因を作った。

生涯
1612年没
死亡地
チェコ共和国(プラハ)
出生地
オーストリア共和国(ウィーン)
出典
世界地図
チェコ共和国(プラハ)

伝記

ルドルフ2世は、神聖ローマ皇帝(在位1576年〜1612年)で、ハンガリー王とボヘミア王も兼ねた人物である。1552年7月18日、ウィーンに、ハプスブルク家のマクシミリアン2世と皇后マリアの長男として生まれた。母はカール5世の娘で、スペインの王女であった。オーストリア大公としてはルドルフ5世にあたる。父がプロテスタントに近い姿勢だったため、母方の叔父であるスペイン王フェリペ2世の宮廷で、11歳から19歳までの1563年から1571年を、弟エルンストとともに過ごした。イエズス会の影響を受けて、厳格なカトリック教徒となった。帰国後、父は、ルドルフが控えめで堅苦しい態度になったことを心配したが、スペイン出身の母は、そこに礼儀正しさと洗練を見たという。1572年にハンガリー王、1575年にボヘミア王となり、1576年に父の後を継いで皇帝に即位した。

即位の当初は、父と同じ寛容な態度で政治を行い、ユダヤ教を含む他の宗教にも寛容で、ユダヤ人に対する寛容な政策のもとで、その文化生活が栄えたと英語の記事は述べる。1583年、祖父フェルディナント1世が夏の宮殿を建てていたプラハ城に、宮廷を本格的に移した。生涯を通じて内向的で秘密主義であり、旅行や国政の日常の仕事を好まない隠遁者であった。憂鬱の発作にたびたび襲われ、年とともに悪化して、外の世界から私的な関心事へ引きこもったとされる。1578年、1580年、1581年ごろから精神の不調が目立ち、1598年に悪化し、1606年ごろには躁鬱の波が激しくなったといわれる。もともと政治能力に欠けていたともいわれ、国政を重臣メルヒオール・クレースルらに任せきりにした。

1593年から1606年にかけて、それまで比較的平和だったオスマン帝国と戦った。この長い戦争で国内情勢は不安定になり、各地で反乱が起きた。疲弊が強かったハンガリーの反発は特に激しく、1606年に同地の信教の自由を認めたが、政策は不徹底で、1608年にハンガリーで大規模な反乱が起き、ルドルフはハンガリー王位を弟マティアスに譲った。翌1609年には勅書でボヘミアの信仰の自由を認めたが、これも不徹底で、彼の死後に三十年戦争が起きる一因になったとされる。マティアスとの関係はハプスブルク家の歴史でも最悪の部類で、1611年にマティアスがプラハに侵攻し、ルドルフはボヘミア王位から退けられた。1612年1月20日に59歳で死去し、ほかの君主位もマティアスが継いだ。

一生結婚しなかったが、愛人との間に6人の庶子をもうけたことで知られる。庶子の長男ユリウスは、のちに愛人の殺害などで幽閉され、精神を病んで1609年に世を去った。政治的には成功しなかったが、教養にあふれた文化人であった。ルドルフの庇護のもとに、スプランヘル、アルチンボルド、ハンス・フォン・アーヘンら多くの芸術家がプラハに集まり、この都はマニエリスム様式の重要な拠点となった。ボヘミアングラスを世界的な水準に育てたのも彼だとされる。自身は錬金術に大きな関心を示し、多くの錬金術師の庇護者となり、天文学者のティコ・ブラーエやヨハネス・ケプラーも出入りした。1597年から、プラハ城の北翼にコレクションの部屋を設け、1605年に完成させたが、これが「驚異の部屋」として名高い。

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