HISTORICAL PERSON · 2003年没

ゾラン・ジンジッチ

セルビアの政治家。民主党の党首を務め、ミロシェヴィッチ政権への抗議行動の後、戦後初の非共産党系のベオグラード市長となった。のちセルビア共和国の首相を務めた。

生涯
2003年没
死亡地
セルビア共和国(ベオグラード)
出生地
ボスニア・ヘルツェゴビナ(シャマツ)
出典
世界地図
セルビア共和国(ベオグラード)

伝記

ゾラン・ジンジッチは、1952年8月1日に生まれ、2003年3月12日に没したセルビアの政治家、哲学者である。ベオグラード市長とセルビア共和国首相を務めた。哲学博士でもあった。

父は旧ユーゴスラビア人民軍の将校として赴任していたボサンスキ・シャマツ(現在のボスニア・ヘルツェゴビナ)で生まれた。専業主婦の母ミラが、姉ゴルダナとともに彼を育てた。一家は父の勤務に従って各地を移り、少年時代の10年はボスニア中部の町トラヴニクで過ごした。のちに母が首都ベオグラードで職を得たため、一家はそこへ移った。ベオグラードの第9ギムナジウムに通い、ベオグラード大学の哲学部に進んで、1974年に卒業した。学生のころから政治に関心を持ち、独立した学生の政治運動を組織しようとしたため、同年、共産党政権に有罪とされた。ところが、西ドイツの元首相ヴィリー・ブラントが当局に働きかけたことで、刑に服する代わりにドイツへ出国できた。

ドイツでは、ユルゲン・ハーバーマスの指導のもと、コンスタンツ大学で学び、1979年に哲学の博士号を得た。「知識人は考えるだけでなく行動する義務がある」というハーバーマスの助言に、強く影響を受けたという。学生時代は学業の優秀さだけでなく、人生を楽しむことを知る人物として知られていたと、同じユーゴスラビア出身の留学生が回想している。ドイツ語に熟達し、のちにセルビアの首相になる3か月前には英語も習得した。ノヴィ・サド大学の教官になるためにユーゴスラビアへ帰国したのは、1979年とも1989年ともいわれる。1980年代には、ベオグラードの有力な雑誌に寄稿した。1988年には、コソボを自治州としてとどめるべきだと主張し、コソボの自治を終わらせようとするスロボダン・ミロシェヴィッチの反対者と見られるようになった。

1989年12月11日、ほかのセルビアの知識人や民主化活動家とともに、自由主義的な民主党を結成した。1990年に党の執行委員会議長となり、同年、セルビア議会の議員に選ばれた。党首に就任した年は、1993年とも1994年ともいわれる。1996年から翌年にかけて、権威主義的な傾向を強めていたミロシェヴィッチ政権に抗議する大規模な行動が起こった後、第二次世界大戦後初の非共産党系のベオグラード市長となった。政敵だった勢力と連合を組んだが、4か月で瓦解した。北大西洋条約機構によるセルビア空爆のさなかには、反体制派のジャーナリスト、スラヴコ・チュルヴィヤが殺害され、ジンジッチは避難のため一時モンテネグロに逃れた。ミロシェヴィッチの秘密警察の暗殺対象の名簿に、チュルヴィヤの次に彼の名があったといわれる。1999年、アメリカのタイム誌は彼を「次世紀の最も重要な政治家」の一人として掲載した。

ミロシェヴィッチ政権が倒れた2000年の大統領選挙で大きな役割を果たし、19党連立の政権の首脳として、2001年1月25日にセルビア共和国の首相に就いた。民主的な改革と、ヨーロッパの枠組みへの統合を唱え、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷への協力を強く進めてミロシェヴィッチを引き渡した。ビル・クリントン、ジャック・シラク、トニー・ブレアといった西側の政治家からも大きな信頼を得た。2003年3月12日、ベオグラードで、警察軍中佐のズヴェズダン・ヨヴァノヴィッチに暗殺された。胸部への銃撃で心臓を損傷したとみられ、病院に運ばれたが、死亡が発表された。

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