HISTORICAL PERSON · 2003年没

レオポルド・ガルチェリ

アルゼンチンの軍人。1981年12月に大統領となり、翌年イギリスにフォークランド紛争を仕掛けて敗北した。これで失脚し、軍事政権崩壊のきっかけとなった。

生涯
2003年没
死亡地
アルゼンチン共和国(ブエノスアイレス)
出生地
アルゼンチン共和国(カセロス)
出典
世界地図
アルゼンチン共和国(ブエノスアイレス)

伝記

レオポルド・フォルトゥナート・ガルチェリ・カステッリは、1926年7月15日にブエノスアイレス州のカセロスで生まれたアルゼンチンの軍人であり、大統領である。姓はガルティエリとも表記される。父フランシスコ・ロサリオ・ガルチェリと母ネリダ・ビクトリア・カステッリはともにイタリア系の家庭の出身だった。13歳でサン・マルティン将軍軍事学院に入り、17歳で陸軍士官学校に入学して、工兵の少尉として卒業した。のちにパナマの米州学校でも学び、1958年には陸軍大学で工学の教授になった。1949年にルシア・ノエミ・ジェンティリと結婚し、3人の子をもうけた。

1969年のロサリオでの騒乱の鎮圧では指揮官の一人となり、2人が死亡、25人が負傷した。1974年12月にはロサリオにある第2軍団の副司令官となり、そこで知り合ったのがロベルト・エドゥアルド・ビオラ将軍だった。1976年のクーデターを支持し、同年10月に第2軍団の司令官に昇進した。1979年2月までその職にあって、サンタフェ、エントレ・リオス、コリエンテス、ミシオネス、チャコ、フォルモサの諸州を含む防衛地域での弾圧を指揮し、その区域には秘密の拘禁施設が置かれて、強制失踪や拷問が多数起きたことが調査で指摘されている。昇進は早く、1979年12月に陸軍司令官に就き、軍事評議会の一員にもなった。1970年代の軍事政権が行った「汚い戦争」と呼ばれる弾圧では、ペロン派や左翼と見なされた国民が狙われ、約3万人が死亡または行方不明になったとされる。

1981年12月、権力闘争のなかでクーデターによりビオラを失脚させ、大統領に就任した。前任者たちよりも強権的とされる一方、国内ではハイパーインフレが続き、政治と経済の混乱は深まった。そこでガルチェリは1982年に入ると、長年イギリスが実効支配してきたマルビナス諸島、すなわちフォークランド諸島の領有問題を前面に押し出した。国民の間では領土問題が過熱し、4月に軍に総攻撃を命じて、まもなく主都ポート・スタンリーを占領した。緒戦ではアルゼンチンが多数のイギリス海軍艦艇を撃沈して有利に戦ったが、イギリス軍が長距離爆撃機による空爆、陸戦、情報戦で反攻すると、一気に劣勢となった。レーガン政権は同盟国イギリスを支持し、東側諸国からもほとんど支援を得られず、同じ軍事政権のチリのピノチェト政権さえイギリス側についた。6月14日にポート・スタンリーが包囲、制圧されて降伏し、敗戦が決まった。

敗戦で政府の威信は失われ、国民の反軍感情が高まった。6月16日に外務大臣と内務大臣が抗議して辞表を出し、翌17日に敗北の責任を問われた大統領は、陸軍総司令官とともに辞任に追い込まれた。1985年には軍政幹部の裁判で無罪とされたが、フォークランド紛争での責任を問われた軍事法廷で、1986年5月に陸軍での地位を剥奪されて収監された。その後、メネム大統領の恩赦を受けるまで獄中にあった。恩赦の年は1989年とも1991年ともいわれる。2002年には人道に対する罪の疑いで再び拘束され、自宅軟禁となった。膵臓癌の治療のため入院し、2003年1月12日にブエノスアイレスで心臓発作により76歳で死去した。

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