伝記
岩淵功は1933年、栃木県に生まれた。サッカー選手としての歩みは、栃木県立宇都宮高等学校で本格化したとみられる。3年次の1950年には小沢通宏とともに全国高等学校蹴球選手権大会で優勝し、若くして全国大会の頂点を経験した。この成果を足がかりに、卒業後は慶應義塾大学文学部へ進み、体育会ソッカー部で競技を続けた。
大学時代から卒業後にかけて、岩淵は慶應BRBの一員としても重要な大会に臨んだ。慶應の現役選手とOBによるこのチームで、1954年と1956年の全日本サッカー選手権大会を制し、二度の優勝に貢献した。また1955年には松永碩、加納孝らと東京クラブに加わり、同年に始まった第1回都市対抗選手権で優勝、翌1956年には連覇を成し遂げた。学校、大学関係のチーム、クラブという複数の舞台で勝利を重ねたことが、岩淵の選手としての基盤を形づくった。
大きな転機は、日本代表として国際舞台に進んだことだった。1955年1月のビルマ遠征で代表デビューを果たし、翌1956年6月3日のメルボルンオリンピック予選、対韓国戦では77分に2点目を決めた。この得点を含む働きによって、日本の予選突破に貢献したとされる。さらに同年11月27日の本大会では、オーストラリア戦に先発出場した。国内大会で積み重ねた実績が代表入りへつながり、そこでの得点と出場が、日本をオリンピック本大会へ進ませる過程の一部となった。
その後も岩淵は1958年アジア競技大会に出場し、1955年から1958年にかけて国際Aマッチ6試合で2得点を記録した。代表としての活動期間は長期に及んだわけではないが、メルボルンオリンピックとアジア競技大会という二つの国際大会に名を連ね、日本代表の一員として記録される選手となった。東京トヨタ自動車に入社した後の勤務先でのサッカー部活動については、出典本文からは分からない。
岩淵は2003年4月16日、癌性腹膜炎により死去した。没後も、宇都宮高校での全国優勝、慶應BRBでの全日本選手権優勝、東京クラブでの都市対抗選手権連覇、そして五輪・アジア競技大会への出場歴が、彼の歩みを示している。とりわけ、国内の各段階で勝利に関わった経験を代表の舞台へ持ち込み、オリンピック予選突破に寄与した点に、岩淵功の競技人生のつながりを見ることができる。
同じ年に亡くなった人物
- ライル・ベトガー (2003年没)
- アニタ・ムイ (2003年没)
- レスリー・チャン (2003年没)
- ジョアン・セーザル・モンテイロ (2003年没)
- アブドゥルカーディル・アル=バドリー (2003年没)