伝記
ミルティアデスは、ローマ教皇で、在位は311年7月10日から314年1月10日までとされる。ただし、就任は310年か311年で、在位の長さも史料により食い違っており、確かなことは分かっていない。没したのは314年1月10日である。没後、12月10日に祭日が設けられて列聖され、自然死だったようだが、苦しい立場で教皇を務めたことから、殉教者と考えられている。ギリシア語ではメルキアデスとも呼ばれる。
出身については、『教皇の書』がアフリカ人と記すが、歴史家はローマ出身説に傾いている。ローマでは、教皇マルケリヌスのもとで司祭を務めていたらしい。選出の正確な日付は分かっていない。前任の教皇エウセビウスは、マクセンティウス帝によって、対立していたヘラクリウスとともに追放された。ローマのキリスト教徒の共同体を引き裂いた争いが終わり、空位を経て、彼が選ばれた。ラテラノの大聖堂を建てたともいわれる。
マクセンティウスは、306年に権力を握ると、303年のディオクレティアヌスによる迫害のときに没収された教会の財産、土地、建物を返すよう命じていた。ローマで返還を実現させたのが、司教ミルティアデスである。彼は助祭カッシアヌスとストラトに皇帝の勅書を持たせ、市の長官のもとへ送った。共同体は礼拝所を完全に取り戻し、司教のもとで平穏に復活祭を祝うことができた。マクセンティウスがミルウィウス橋の戦いで倒れた後、ミルティアデスはコンスタンティヌスと会ったと考えられる。このとき、あるいは少し後に、コンスタンティヌスは皇后ファウスタのカエリウス丘の宮殿を司教に与え、これがラテラノ宮殿となって、以後数世紀にわたり教皇の通常の住居となった。313年にコンスタンティヌスとリキニウスが出したミラノ勅令は、キリスト教徒をはじめ諸宗教に信仰の自由を認め、教会の財産を返還させたが、ミルティアデスがこれに影響を与えた形跡はない。牧会活動としては、『教皇の書』は二つの決定だけを記す。祝別されたパンの一部をローマの各教会に分けること、木曜と日曜の断食を禁じることである。
彼の在位で最もよく記録されているのは、ドナトゥス派論争への関与である。312年ごろ、カルタゴの司教にカエキリアヌスが選ばれたことに、厳格派の「殉教者の党」が異議を唱えた。カエキリアヌスを叙階した司教が、迫害の際に聖書を当局へ引き渡した裏切り者だとされたからである。約70人の司教がカエキリアヌスを退けてマヨリヌスを立て、313年にはドナトゥスが後を継いだ。彼らはコンスタンティヌスがカエキリアヌスを支持したことに不満で、ガリアの司教による裁定を求めた。皇帝は、この件の審理をミルティアデスに委ね、皇帝がローマ司教に宛てた最初の書簡として知られるものを送った。
ミルティアデスは、イタリアの司教15人ほどを招き、皇帝の命による審理の場を、正式な教会会議に変えた。会議は皇后ファウスタの宮殿で開かれ、両派の代表約10人ずつが出席し、その中にカエキリアヌスとドナトゥスもいた。カエキリアヌスの任命の有効性は審議されず、その地位が確認され、ドナトゥスは、迫害時に背教した信徒の再洗礼と聖職者の再叙階を要求したため、破門された。ミルティアデスは、ドナトゥス派の司教たちに、司教の地位を保つことを申し出て切り崩そうとしたが、成功しなかった。
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