HISTORICAL PERSON · 2002年没

ビリー・ワイルダー

アメリカの映画監督、脚本家、プロデューサー。ベルリンで脚本家として出発し、『日曜日の人々』に参加。50年以上映画に関わり、60本もの作品に携わった。

生涯
2002年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / ビバリーヒルズ)
出生地
ポーランド共和国(スハ・ベスキツカ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

ビリー・ワイルダーは、1906年6月22日に生まれ、2002年3月27日に没したアメリカ合衆国の映画監督・脚本家・プロデューサーである。50年以上にわたって映画に関わり、60本もの作品に携わった。本名はザムエル・ヴィルダーという。

オーストリア=ハンガリー帝国領ガリツィアのスハ・ベスキツカ(現在のポーランド)で、鉄道駅構内のカフェ・レストランを営むユダヤ系のマックスと、同じくユダヤ系のオイゲーニアの間に生まれた。2人兄弟の次男で、アメリカびいきの母から、西部劇の主人公バッファロー・ビルやワイルド・ビル・ヒコックにちなんで「ビリー」とあだ名をつけられた。父は法律家にさせたがったが、大学には進まず、新聞記者としてスポーツや映画の記事を書いた。1926年にウィーンでジャズ奏者ポール・ホワイトマンにインタビューして親しくなり、誘われてベルリンに移った。新聞社に入ると、連載記事のためにダンスホールのジゴロに扮して、その経験を記事にしたという。21歳で脚本家の仕事を始めたが、当初は家賃も払えない極貧の暮らしだった。1929年に『悪魔の記者』で初めて名前がクレジットされ、同年に参加した『日曜日の人々』が高く評価されて、ドイツ最高の映画会社ウーファに招かれた。

1933年にナチスが台頭すると、ユダヤ系のワイルダーはフランスに亡命した。国会議事堂放火事件のとき、議事堂がまだ燃えている間に荷造りをして、ドイツを発ったという。パリでは偽名で脚本を書きつつ、『悪い種子』で監督デビューし、1934年にアメリカへ渡った。英語はまだ話せなかった。ハリウッドで脚本を売り込んだが鳴かず飛ばずで、1935年にウィーンに残した母に会い、アメリカへの移住を勧めたが断られ、これが永遠の別れとなった。母と祖母は、のちにアウシュヴィッツなどで殺されたとされる。1937年にパラマウント映画に脚本を売り込み、脚本家チャールズ・ブラケットと出会い、エルンスト・ルビッチの『青髭八人目の妻』の仕事を得た。以後ブラケットとのコンビで『ニノチカ』『教授と美女』など数々のコメディを手がけ、ハリウッド一の脚本家コンビと称された。

1942年、『少佐と少女』でハリウッドの監督としてデビューした。きっかけは、自分の脚本を勝手に変更されたことへの憤慨だった。1944年の『深夜の告白』は、フィルム・ノワールの古典とされ、アカデミー監督賞と脚本賞にノミネートされた。1945年の『失われた週末』は、アルコール依存症を描いた最初のドラマの一つで、のちにアカデミー作品賞、監督賞、脚本賞を受賞した。『サンセット大通り』(1950年)などを経て、ブラケットとのコンビを解消した。1954年の『麗しのサブリナ』、1955年の『七年目の浮気』のほか、1957年にはI・A・L・ダイアモンドと組み始め、『情婦』(1958年)、『お熱いのがお好き』(1959年)、『アパートの鍵貸します』(1960年)を送り出した。『アパートの鍵貸します』では作品賞、監督賞、脚本賞を受け、1本の映画で1人が3つのオスカーを得たのは史上初だった。1981年の『バディ・バディ』を最後に映画を撮らなくなり、1988年にダイアモンドが亡くなると完全に引退した。1986年にアメリカン・フィルム・インスティチュートから功労賞を受けた。

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