伝記
ジョナス・マリェイロ・サヴィンビは、1934年8月3日にアンゴラのビエ州ムナンゴで生まれ、2002年2月22日に戦闘のなかで亡くなったアンゴラの政治家、民族主義者、ゲリラ活動家である。反政府武装勢力アンゴラ全面独立民族同盟(ユニタ)の創始者で、その軍事部門の司令官でもあった。独立前も含めて30年以上続いたアンゴラ内戦の当事者である。
父ロッテはベンゲラ鉄道会社に勤め、福音派教会の牧師でもあり、母ヘレナは家事労働者であった。両親はともにオヴィンブンドゥ人に属する。サヴィンビは少年期を教会の運営する学校で過ごし、学業で頭角を現した。1958年に医師を志して宗主国ポルトガルのリスボン大学に留学し、医学を専攻した。しかしリスボンで反政府活動への取締を受け、これを避けるためにスイスへ移った。スイスではフリブール大学で社会学を学んだ。1961年には、反政府組織アンゴラ民族解放戦線の亡命政府の外務大臣に指名された。1965年にはスイスのローザンヌ大学で政治学を学んで博士号を取得し、中華人民共和国では軍事訓練を受けて、毛沢東思想に傾倒した。
1966年にアンゴラ民族解放戦線を離れ、自らユニタを結成してアンゴラ独立戦争に加わった。解放運動が鎮圧された場合に備えて、ポルトガルの秘密警察とも関係を持ち、対立するアンゴラ解放人民運動の情報を流していたとされる。1975年にアンゴラが独立を達成すると、解放人民運動がソビエト連邦とキューバの援助でマルクス・レーニン主義を掲げる共和国を建てた。これに対し、古巣の民族解放戦線とともに別の政権を立ち上げ、内戦を引き起こした。ユニタを支えたのはアメリカ合衆国や中国、ザイール、フランス、イスラエルなどソ連陣営と敵対する国々で、さらにアパルトヘイト時代の南アフリカからは直接の支援を受けた。毛沢東主義者であり、モスクワへの留学も拒むほどソ連に敵対的だったが、1970年代から80年代前半には、共産主義政権の打倒を目指す反共主義者として西側諸国から強い支援を受けた。1985年には、南アフリカ軍に警備されたユニタの本拠地で、ニカラグアのコントラやアフガニスタンのムジャヒディンの代表らと国際組織の設立会議を開いた。
南アフリカのボータ大統領とは親交を結び、象牙のAK-47を贈っている。本人はアパルトヘイトに反対し、ボータにネルソン・マンデラの解放を働きかけたとされる。ソビエト連邦の崩壊に伴って発言力は低下し、1990年代前半には軍事的にも劣勢となった。1992年に内戦の和平条約が結ばれて大統領選挙に出たが落選し、政府には参加せず、温存した勢力を使って1994年に戦闘を再開させた。ダイヤモンド採掘の収益は数十億ドルとも推定されるが、その使い道は武装組織の資金だけでなく、個人の蓄財にも回されたかどうかは不明である。
2002年、軍事的な劣勢のなかで、戦闘中に67歳で死去した。正規軍ではなく民間軍事会社が襲撃を実施したとされ、事実上の暗殺に近いのではないかと見られている。2016年2月には遺族が、ゲーム『コール オブ デューティ ブラックオプス2』でサヴィンビを野蛮な人物として描いたとして、フランス支社を相手に100万ユーロの損害賠償を求めて提訴した。
同じ年に亡くなった人物
- Vitaly Solomin (2002年没)
- Pierre Rapsat (2002年没)
- トマス・ゴードン (2002年没)
- Georges Beaucourt (2002年没)
- マリオ・ナシンベーネ (2002年没)
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