HISTORICAL PERSON · 2001年没

ウィリアム・ハンナ

アメリカのアニメーター・プロデューサー。大家族の一員として各地を移り住みながら育ち、アニメ制作の世界で活躍した。

生涯
2001年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / ノース・ハリウッド)
出生地
アメリカ合衆国(Melrose)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

ウィリアム・デンビー・ハンナは、通称ビルといい、1910年7月14日にアメリカ・ニューメキシコ州メルローズで生まれたアニメーター、プロデューサーである。7人きょうだいの中で唯一の男子で、大家族ながら喧嘩ひとつしない仲のよい兄弟姉妹だったという。父は鉄道や下水道の建設の現場監督のような仕事をしており、様々な現場へ行くために一家で移住を繰り返した。3歳のときにオレゴン州ベイカー・シティへ移り、豊かな自然に触れたことが貴重な経験になった。その後ユタ州ローガンなどを転々とし、1919年にはカリフォルニア州ワッツに落ち着いた。1922年にボーイスカウトに加わり、熱心に取り組んで最上級のイーグルスカウトに達した。のちにはスカウトの指導者にもなり、1985年にはボーイスカウト協会から顕著なスカウトとして表彰された。すでにアニメーターとして有名になっていたが、どんな賞よりもこれを誇りに思っていたといわれる。

コンプトン高校にも通い、ダンスバンドでサクソフォンを吹いた。音楽に熱中した理由は、「漫画を描く気分になる」ことだったという。のちに自作のアニメの主題歌を手がけたのも、この音楽好きの表れである。航海や、理髪店風の四重唱の歌い手もしていた。コンプトン・シティ・カレッジで工学などを学んだが、世界恐慌の最中に退学した。1936年8月7日にヴァイオレット・ブランチ・ウォガツケと結婚し、息子デイヴィッドと娘ボニーをもうけた。孫は7人いた。大学をやめてからは建設技師としてハリウッドのパンテージズ劇場の建設に関わったが、不況で解雇されて、洗車場で一時働いた。姉妹の恋人に勧められて、映画の字幕を作る会社パシフィック・タイトル・アンド・アートに入り、絵の才能が目立ち始めた。

1930年、ワーナー・ブラザース向けの作品を作っていたヒュー・ハーマンとルドルフ・アイジングのスタジオに入り、アニメーターとしての経歴を始めた。特別な教育は受けていなかったが、まもなく彩色部門の責任者となり、主題歌の歌詞を書くこともあった。1933年にハーマン=アイジングがワーナーとの関係を絶ち、MGMと契約すると、ハンナも二人に従った。1936年には初めて監督した『トゥ・スプリング』が作られた。1937年にMGMが独自のアニメ部門を立ち上げると、監督として迎えられ、この年に脚本家のジョセフ・バーベラも入社した。1940年からバーベラとコンビを組み、フレッド・クインビーの下で『トムとジェリー』を共同で制作した。このコンビは半世紀以上続き、アカデミー賞を7度、エミー賞を8度受けた。1955年にクインビーが去ると、バーベラとともに監督とプロデューサーを兼ね、1957年にMGMがアニメ部門を閉鎖するまで務めた。同年に二人はハンナ・バーベラ・プロダクションを設立し、『チキチキマシン猛レース』や『フリントストーン』など、数多くのテレビアニメを生んだ。1967年に会社は1200万ドルでタフト放送に買収されたが、二人は1991年まで経営に当たった。1996年には、作家トム・イトウの助けを得て自伝を出版した。2001年3月22日、ロサンゼルスで喉頭癌のため90歳で死去した。

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