HISTORICAL PERSON · 2001年没

大埜正雄

日本のサッカー選手、指導者。東京大学で1949年の全日本選手権優勝に貢献し、1955年に加入した東京クラブでは第1回都市対抗選手権で優勝した。

生涯
2001年没
死亡地
日本(滋賀県 / 日本)
出生地
日本(神奈川県)
出典
世界地図
日本(滋賀県)

伝記

大埜正雄は、1923年3月2日に生まれた神奈川県出身のサッカー選手・指導者である。神奈川県立湘南中学に在学した1939年、全国中等学校蹴球選手権大会でベスト4に進出した。この大会は、現在の全国高等学校サッカー選手権大会の前身にあたる。1940年に湘南中学を卒業すると旧制水戸高等学校へ進み、その後、東京帝国大学経済学部に進学してア式蹴球部に所属した。中学年代で全国大会の上位に入り、旧制高校、大学へと競技の場を移したことが、その後の選手生活の基盤となったといえる。

大学在学後の大埜は、現役選手と卒業生によって構成された東大LBに加わった。有馬洪らとともに臨んだ1949年の全日本選手権では、チームの優勝に貢献している。学生として学業を修めながら、大学を越えた混成チームの一員として全国規模の大会に出場し、優勝という成果につなげた点に、彼の競技歴における大きな転機があった。

大学卒業後は日産化学工業に入社した。勤務先でサッカー部の活動を行ったかどうかは不明だが、1955年には松永碩、岩淵功らとともに東京クラブへ加入した。同年の第1回都市対抗選手権で優勝し、翌1956年にも大会を制して連覇に貢献した。これは単独の記録ではなく、東京クラブの最初の二大会での連続優勝を支えた実績であり、社会人のクラブチームとして競技の舞台に立ち続けた大埜の主な功績の一つとなった。

日本代表としては、1952年6月8日の全香港華人選抜戦で初出場を果たした。その後、1954 FIFAワールドカップ予選と1954年アジア競技大会に出場し、国際Aマッチでは1954年に3試合、得点は0だった。中学、大学、クラブで積み重ねてきた活動は、やがて国を代表する試合への出場へとつながり、日本の国際舞台に立つ選手の一人として記録されることになった。

1956年5月、大埜はメルボルン五輪日本代表のコーチに就任した。これにより、選手として大会に出場する立場から、代表チームを支える指導者の役割へと活動の軸を移したことが分かる。競技者としての歩みを経て指導者となった大埜は、2001年2月11日、腹部動脈瘤破裂のため死去した。享年78。出典本文には晩年の具体的な活動や、その後の指導内容までは記されていないが、全国大会、全日本選手権、都市対抗、代表、五輪代表コーチへと進んだ経歴は、戦前から戦後にかけて日本サッカーの複数の段階に関わった足跡として残されている。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物