HISTORICAL PERSON · 2000年没

ピエール・トルドー

カナダの第20・22代首相。多文化主義や途上国援助を進め、国家としてのアイデンティティを明確にした。20世紀生まれで初の首相となった。

生涯
2000年没
死亡地
カナダ(ケベック州 / モントリオール)
出生地
カナダ(モントリオール)
出典
世界地図
カナダ(ケベック州)

伝記

ピエール・エリオット・トルドーは、1919年10月18日にカナダのケベック州モントリオールで生まれた政治家で、第20代と第22代の首相を務めた。姓はトリュドーとも表記される。裕福なフランス系の家庭に生まれ、父シャルル・エミール・トルドーはフランス系カナダ人の実業家で弁護士、母グレース・エリオットはスコットランド系とフランス系の混ざった家の出であった。姉スゼットと弟シャルルがいた。父はガソリンスタンドの会社や鉱山、遊園地、地元の野球チームなどを手に入れていたが、1935年に亡くなり、トルドーときょうだいはそれぞれ5000ドルの遺産を継いで、経済的な独立を得た。母は彼を深く愛し、彼は長い生涯を通じて母の近くにいた。

6歳から12歳まではモントリオール郊外アウトルモンの小学校に通い、カトリックの信仰に浸った。数学と宗教の成績が優れていた。のちにモントリオール大学で学び、ハーバード大学の大学院に進んで、マルクス主義に強い関心を持ち、共産主義とキリスト教に関する論文を書いた。その後、パリ政治学院を経て、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスでハロルド・ラスキに師事したが、中退した。弁護士となり、1961年から1965年までモントリオール大学で法律学の教授を務めた。1950年代には、ケベック州で当時優勢だった保守的な政党に反対して政治に関心を寄せ、1965年に自由党から国会議員に当選した。1967年にはレスター・ピアソン首相のもとで法務大臣兼司法長官に任命され、離婚に関する法の緩和や同性愛の非犯罪化、人工妊娠中絶の合法化に取り組んだ。

1968年にピアソンの後を継いで自由党の党首となり、首相に就いた。人柄が明るく人目を引き、「トルドーマニア」と呼ばれる社会現象を生んで、同年の選挙で圧勝した。1970年、ケベック解放戦線がケベックの独立を求めてイギリスの貿易官を誘拐し、ケベック州の労働大臣ピエール・ラポルトを殺害した十月危機では、戦時措置法を発動して強硬に解決にあたった。この決定は今も賛否が分かれている。ケベック生まれのフランス系でありながら独立に反対し、カナダをひとつの国としてまとめようと強い指導力を示した。1971年には多文化主義を宣言し、英語とフランス語を公用語とするなど、今日の多文化国家の原型を作った。経済政策では国営石油会社を設立して石油産業の国有化を図り、ソ連や中国、キューバとの関係も築いた。1979年の選挙で敗れたが、数か月後の1980年に政権へ返り咲いた。1980年のケベックの主権をめぐる住民投票では否決を訴える運動を率い、否決が勝った。1982年には新憲法を制定させ、権利と自由の憲章を公布して、イギリスとの関係を明確にした。1984年に政界から退いた。

ソ連の駐カナダ大使として赴任したアレクサンドル・ヤコブレフとは深く親しみ、次男にアレクサンドルと名づけ、サーシャと呼んだほどだった。マーガレットとの結婚は1984年に離婚で終わり、長男ジャスティンは後年、自由党の党首、そして首相となった。1998年には三男ミシェルを雪崩の事故で失った。晩年は癌とパーキンソン病で闘病し、表舞台から退いた。2000年9月28日、家族に看取られて世を去った。2004年にはモントリオールの空港が彼の名を冠してモントリオール・トルドー国際空港と改称された。

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