伝記
ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインは、1908年6月25日、アメリカのオハイオ州アクロンに生まれた哲学者、論理学者である。父は工場を経営し、母は教師だった。1930年にオーバリン大学を卒業し、数学と哲学で学士号を取った。1932年にはハーバード大学でホワイトヘッドの指導のもと博士号を得ている。のちにハーバードのジュニア・フェローに選ばれ、4年間は教育の義務を免除された。1932年から1933年にはフェローシップを使ってヨーロッパを遊学し、タルスキのような優れた論理学者や、ウィーン学派のカルナップらと交流した。1939年の秋にケンブリッジで開かれた科学統一会議にタルスキが招かれたのは、クワインの紹介による。タルスキはドイツ軍がポーランドに侵攻する前にグダニスクを離れて渡米し、第二次世界大戦を生き延びて、その後44年間をアメリカで過ごした。
第二次世界大戦中はブラジルやポルトガルで論理学を講義し、1942年から1946年まで海軍の諜報部に勤めて、少佐まで昇進した。1956年から1978年まではハーバード大学のエドガー・パース哲学教授を務めた。研究室からはドナルド・デイヴィッドソン、デイヴィッド・ルイス、ダニエル・デネット、鶴見俊輔、王浩など、多くの著名な哲学者が育った。博士論文や初期の著作は形式論理学と集合論に関するもので、第二次世界大戦後になって、存在論や認識論、言語についての独創的な論文を発表し、頭角を現した。
1930年代から1940年にかけて、カルナップやネルソン・グッドマン、タルスキらと議論するなかで、クワインは、言葉の意味だけで真となる「分析」命題と、世界の事実に依存する「総合」命題との区別が、それほど強固ではないのではないかと疑うようになった。この区別は論理実証主義の核心にあたる。1951年の論文「経験主義の二つのドグマ」でそれを批判し、個々の命題だけでは経験による検証は得られず、検証されるのは命題の体系全体であるという検証の全体論を唱えた。この批判によって論理実証主義は衰えたともいわれる。『ことばと対象』ではこの立場をさらに発展させ、「ガヴァガイ」で知られる翻訳の不確定性のテーゼを導入した。1960年代には、自然科学の方法を用いて知識と意味についての主要な問いに答えようとする「自然化された認識論」を発表した。自然科学に先立ってそれを正当化する「第一の学としての哲学」という考えを退け、これは彼の哲学的自然主義にとって本質的なものである。
語学に恵まれ、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語で講義ができた。荘厳でウィットに富む英語の詩もよく書き、1986年には自伝『わが人生の時』を著している。一方で、論理実証主義者たちと同じく過去の大陸哲学者にはほとんど関心を示さず、哲学史の授業でヒュームを教えたのが唯一の例外だった。最初の教え子の一人に鶴見俊輔がいる。1959年に初めて来日し、1993年にショック賞論理学・哲学部門、1996年に京都賞思想・芸術部門を受けた。甥のロバート・クワインはギタリストである。2000年12月25日に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
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