HISTORICAL PERSON · 2000年没

ベッティーノ・クラクシ

イタリアの政治家で、第66代首相、第12代イタリア社会党書記長。巧みな弁舌でテレビ時代の社会に訴え、新中間層へ働きかけて社会党を労働者の党から変貌させた。

生涯
2000年没
死亡地
チュニジア共和国(ナブール県 / ハンマメット)
出生地
イタリア共和国(ミラノ)
出典
世界地図
チュニジア共和国(ナブール県)

伝記

ベッティーノ・クラクシは、本名をベネデットといい、1934年2月24日、ミラノに生まれたイタリアの政治家である。父ヴィットーリオはシチリア出身の弁護士で、ムッソリーニの体制に迫害された反ファシストだった。母マリア・フェッラーリはサンタンジェロ・ロディジャーノ出身の専業主婦である。第二次世界大戦中、反抗的な性格だった少年は、ファシストによる報復から守るためもあって、カトリック系の学校に送られた。戦後、父はミラノの副知事、ついでコモの知事に就き、一家は1945年にコモへ移った。少年は一時、神学校に入ることも考えたが、1948年の総選挙に父が社会党と共産党の連合から立候補すると、その応援に回り、17歳でイタリア社会党に入党した。

ミラノ大学の法学部、のちにウルビーノの政治学部で学ぶ間に、「大学社会主義グループ」を創設し、左翼を支持する学生団体にも加わった。演説や討論会、映画の上映会を開いて人前で話すことを覚え、1956年には社会党ミラノ県委員会の一員となり、社会主義青年連盟を率いた。同年、ソ連のハンガリー侵攻を受けて、党の親共産党路線を改めさせようとしたが、提案は退けられた。同年11月に母の出身地の市議に選ばれ、1957年には中央委員会の委員となった。1960年にミラノ市議に選ばれ、1968年の総選挙で初めて下院議員に当選した。1970年には党の副書記となり、1972年には国際関係の担当を任された。社会主義インターナショナルでの活動を通じて、ヴィリー・ブラント、フランソワ・ミッテラン、フェリペ・ゴンサレス、アンドレアス・パパンドレウら、のちの欧州の指導者たちと親交を結んだ。独裁政権下で禁じられた社会党のために資金を送ることもあり、チリのアジェンデとも友人だった。

1976年、党書記に選ばれた。この年の総選挙で社会党は、得票率が10パーセントを割る敗北を喫していた。テレビが家庭に浸透しつつある時代に、巧みな弁舌と洗練された容姿でイタリア社会に訴え、増えつつあった新しい中間層へ支持を広げて、社会党を労働者の党から変えていった。共産党を政権連合から排除して左翼勢力内の主導権を取り戻し、キリスト教民主党に不可欠な連立相手として社会党を売り込み、得票率が10パーセントに満たないにもかかわらず大きな権力を握ろうとした。

1983年8月、社会党から初めて首相に就いた。政権にはキリスト教民主党、社会党、社会民主党、共和党、自由党が参加し、「五党連合」と呼ばれた。副首相にフォルラーニ、外相にアンドレオッティ、国防相にスパドリーニを置き、各党の有力者を集めた内閣だった。賃金の物価スライド制を廃止するなどの経済改革に取り組み、長い停滞からの脱却と成長を実現したとされる。ローマ教皇との政教和約を改め、国家と教会の不干渉を確認して、カトリックの国教としての地位を削除させた。欧州統合にも取り組み、1992年のマーストリヒト条約への道筋をつけた。1987年4月まで首相の座にあり、その在任はデ・ガスペリに次ぐ長さだったが、のちにベルルスコーニに抜かれた。

1990年代の汚職事件タンジェントポリで、クラクシも関与したとして捜査の対象となり、1994年にチュニジアへ逃れた。そのままイタリアに戻ることなく、2000年1月19日、ハンマメットで心臓発作により没した。

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