伝記
ティコ・ブラーエは1546年12月14日、デンマーク領スコーネのクヌツトープ城で、デンマークで最も有力な貴族家系の1つの後継者として生まれた。12人兄弟の長男で、双子の弟は洗礼を受ける前に死に、ティコは後にこの弟のためにラテン語の頌歌を書いて1572年に印刷している。2歳のとき、子のいないおじヤアアン・ブラーエ夫妻に引き取られ、兄弟姉妹のなかで母に直接育てられなかった唯一の子となった。1559年、12歳でコペンハーゲン大学に入り、おじの希望で法学を学んだが、天文学に興味を持つようになった。ある天文現象の瞬間に立ち会い、当時の予測ははずれていたが、予測が行われたこと自体に大きな感動を覚えたという。より精密な観測こそがより正確な予測の鍵だと認識したという。
1562年初頭、おじは彼を公僕の道へ進ませるべく留学に送り出した。ライプツィヒ大学に入った1563年、木星と土星の合を観測し、予測に使われたコペルニクスとプトレマイオスの天文表が不正確であることに気づき、毎晩の体系的で精密な観測が必要だと悟って、観測記録を残しはじめた。1565年に帰国した直後、デンマーク艦隊の副提督としてスウェーデンとの戦争に加わったおじヤアアンは、敗れたのち高熱で死亡した。1566年にはロストック大学で学び、同窓の貴族との剣による決闘で鼻梁を失い、大学で可能な限りの治療を受けたが、以後は付け鼻をして過ごした。これは銀と金製と噂されたが、2010年に掘り返された遺体の骨の調査で、真鍮製だった可能性が高いと報告されている。
1568年にはロスキレ大聖堂の律修司祭に叙任されて研究に集中できるようになり、1571年に父が死ぬと、別のおじスティーン・ビレの支援で天文台と錬金術の研究所を建てた。平民の牧師の娘キアステンとは、結婚すれば貴族の特権を失うため正式には結婚せず、約30年を共に暮らして8人の子をもうけ、6人が成人した。最初の娘キアスティーネは1573年に生まれたが、1576年にペストで亡くなった。1572年11月11日には、カシオペア座に予期せぬ極めて明るい星を観測した。翌1573年の『新星について』で、正確な観測から月軌道より低い場所の現象なら予想される視差が検出されないことを示し、それが大気や月よりも遠い場所の現象だと論じた。同様の観測から、彗星も大気圏の境界の現象ではないと示した。
デンマーク王フレゼリク2世はヴェン島の邸宅を下賜し、ウラニボリに最初の天文台を建てる資金を出した。ティコは巨大な天文台で数多くの精密な観測を行い、精度が不十分と気づいた後は、スターニボリの地下で観測した。島では製紙工場なども設け、現地住民には横暴に振る舞ったという。王位がクリスチャン4世に移ると新王との不和で1597年に追放され、ルドルフ2世に招かれてプラハで帝室付の天文学者となった。1600年から1601年の死までヨハネス・ケプラーの補佐を受けて研究を続け、ケプラーはのちにこの観測データからケプラーの法則を発見した。
ティコが提唱した宇宙モデルでは、地球が中心にあり、月と太陽が地球の周りを、惑星が太陽の周りを公転する。彼は望遠鏡導入以前の最後の重要な天文学者で、観測値は当時最良のものより5倍ほど正確だった。1601年10月24日に没し、いとこや助手による毒殺説も唱えられたが、1901年と2010年の調査から、死は毒ではなく膀胱の破裂によるものであろうとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ミハイ勇敢公 (1601年没)
- ダマト・イブラヒム・パシャ (1601年没)
- コスタンツォ・ポルタ (1601年没)
- イヴァン・モスクヴィチン (1601年(推定))
- フランシスコ・サンチェス・デ・ラス・ブロッサス (1601年没)
同じ地域に関係する人物
- フランチシェク・ヴェセリー (2009年没)
- Adelaide of Hungary (1062年没)
- アレクサンドル・アルハンゲルスキー (1924年没)
- ヴォイチェフ・ヒナイス (1925年没)
- ミロスラフ・オンドリチェク (2015年没)