伝記
アマリア・ロドリゲスは、公式には1920年7月23日にリスボンで生まれ、1999年10月6日に同地で没したポルトガルの歌手であり女優である。「ファドの女王」として知られ、20世紀を代表する歌手の一人と称され、ポルトガルで最も成功した芸術家とされる。生まれの日付には異説があり、本人は7月1日を誕生日とし、近年の調査では1915年7月1日にフンダンで生まれたとする説もあるが、公式の日付が有効とされる。
父アルベルティーノ・デ・ジェズス・ロドリゲスは、楽士で馬具職人、靴職人でもあり、母ルシンダ・ダ・ピエダーデ・レボルダンと4人の子を養うため、リスボンで運を試した。両親はポルトガルの中東部の出身であった。生後14か月ほどで、仕事が見つからなかった父は一家を連れてフンダンへ戻り、アマリアは母方の祖父母アントニオ・ジョアキン・レボルダンとアナ・ド・ロザーリオ・ベントのもとに残された。少女の頃から歌を覚えるのが早く、内気だったが祖父や隣人に頼まれて歌い、カルロス・ガルデルのタンゴや耳にした民謡を口ずさんでいたという。9歳でようやく学校へ通えたが、読み書きのできない祖母のもとでの暮らしは貧しく、12歳で学業を中断し、刺繍の仕事を選んだ。14歳で両親のもとへ移ったが、生活は祖父母の家ほど楽ではなく、母を助けて刺繍や洗濯の仕事をした。15歳のとき、果物売りをするうちに独特の声の響きで注目された。1935年にはリスボンの聖アントニオの祭りのアルカンタラの行進に加わり、練習を指導する人から、「ファドの女王」の称号を競うコンクールに出ることを勧められたが、ほかの出場者が競うのを拒んだため、参加しなかった。やがて一家の家計を支えるためさまざまな仕事に就いたのち、18歳で一流のナイトクラブ「ファドの家」に出演して反響を呼んだ。この店を登竜門に、ミュージカルの分野でも成功してファド歌手として認められた。
1943年にはマドリードの王立劇場に出演して国際的な活動を始め、1944年から翌年にかけては、リオデジャネイロのカジノ・コパカバーナに8か月間出演した。1947年の映画『黒いマント』で映画に初出演し、これは1年以上上映されて、ポルトガル映画で最も成功した作品になったとされる。1954年には、アルバム『ファドとフラメンコのアマリア』が米国の売り上げ一位に達したと伝わり、同年にはニューヨークのラジオシティ・ミュージックホールに4か月出演した。同年のフランス映画『過去をもつ愛情』で歌った「暗い艀」は、ファドではないが代表作となった。アルバムは亡くなるまでに30か国で170枚が出され、3000万枚以上を売ったという。
1974年に独裁政権が崩壊すると、国家的な歌謡として擁護されたファドは冷遇され、アマリアにも批判が向けられた。サラザール政権との関係が噂されたが、実際には政権が彼女の多くのファドを検閲しており、彼女は革命の歌「グランドラ、ヴィラ・モレーナ」を歌い、共産党にひそかに資金も渡したと伝えられる。のちにEU参加の流れのなかで自国の文化を見直す動きが強まり、ファドも若い世代を中心に再評価されて、ミージアやドゥルス・ポンテスらが後を継いだ。1999年に79歳で亡くなると、ポルトガルは3日間の喪に服した。2001年にはリスボンの国立パンテオン(サンタ・エングラシア教会)に移され、エンリケ航海王子らとともに、国民的英雄の一人として眠っている。
同じ年に亡くなった人物
- アラン・ペールフィット (1999年没)
- ウィリアム・ホワイトロー (初代ホワイトロー子爵) (1999年没)
- Kalju Lepik (1999年没)
- 白光 (女優) (1999年没)
- イマヌエル・ジャコボヴィッツ (1999年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョアン5世 (ポルトガル王) (1750年没)
- ジョアン・デ・ブラガンサ (ベージャ公) (1861年没)
- ルイス・デ・フレイタス・ブランコ (1955年没)
- フランシスコ・デ・アルメイダ (1510年没)
- フェルナンド・ペソア (1935年没)