伝記
ワシリー・ワシーリエヴィチ・レオンチェフは、1905年8月5日に生まれ、1999年2月5日にニューヨークで没したロシア出身の経済学者である。ソビエト連邦出身で、のちにアメリカに移った。ある産業部門の変化が他の部門にどう波及するかを分析する投入産出分析(産業連関分析)の研究により、1973年にノーベル経済学賞を受賞した。
ドイツ帝国のミュンヘンで、経済学教授であった同名の父ワシリー・ワシーリエヴィチ・レオンチェフと、ユダヤ系の母ズラータ(のちエヴゲニヤ)・ベケルの間に生まれた。父方の家は1741年からサンクトペテルブルクに住んだ古儀式派の商人の家系で、母は、オデッサの裕福なユダヤ人の家の出であった。のちにロシアに戻り、ロシア革命後の1921年、15歳でペトログラード大学に入った。最初は哲学と社会学を学び、のちに経済学へ移って、1925年に19歳で経済学修士号を得た。学問の自治や言論の自由を求める運動に加わってピティリム・ソローキンを支持したため、チェーカーに何度も拘束された。それでも1925年に出国を認められたのは、致死的な肉腫にかかっているというチェーカーの見立てがあったためで、この診断は後に誤りと判明した。
ベルリンのフンボルト大学に学び、ヴェルナー・ゾンバルトのもとで経済学の博士号を取得した。学位論文は『循環としての経済』で、「投入産出分析」にあたる内容であった。1927年から1930年まではキール大学の世界経済研究所に勤め、統計によって需要曲線と供給曲線を導く研究をした。1929年には中国へ渡り、鉄道省の顧問を務めた。1931年にアメリカに渡って全米経済研究所で働き、1932年にハーバード大学の講師となった。同じ年に詩人のエステル・マークスと結婚して、1936年に、夫妻のただ一人の子スヴェトラナ・レオンチェフ・アルパースが生まれた。第二次世界大戦中は、アメリカの戦略情報局で顧問を務めた。1946年にハーバードの経済学教授となり、1948年にハーバード経済調査事業を設立して、1973年まで所長を務めた。1949年にはハーバードの初期のコンピュータと労働統計局のデータを使い、アメリカ経済を500の部門に分けて線形の方程式で表し、解いた。数理モデルへのコンピュータの重要な利用の一つだった。1965年からは、ハーバード協会の議長を務めた。
投入産出分析を発展させ、その手法を磨いて重要な経済問題に適用したことで、ノーベル賞を受けた。1953年には、アメリカが主に労働集約的に生産された財を輸出していることを見いだした。資本に富むアメリカが資本集約的な財を輸出するはずだというヘクシャー=オリーンの定理と矛盾する結果で、これはレオンチェフの逆説と呼ばれる。1970年にはアメリカ経済学会の会長を務めた。博士課程の学生だったポール・サミュエルソン、ロバート・ソロー、ヴァーノン・スミス、トーマス・シェリングも、のちにノーベル賞を受けている。1975年にニューヨーク大学の教授になり、経済分析研究所を設立して所長を務めた。日本の学界や政府、産業界との関係も深く、1985年に日本政府から特別叙勲を受け、環太平洋産業連関分析学会の設立にも指導的にかかわった。釣りやバレエ、良質のワインを楽しんだことで知られる。1999年、ニューヨークで93歳で亡くなった。
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