HISTORICAL PERSON · 1999年没

ダニエル・ネイサンズ

アメリカの微生物学者。制限酵素の発見と分子遺伝学への応用により、1978年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。

生涯
1999年没
死亡地
アメリカ合衆国(メリーランド州 / ボルティモア)
出生地
アメリカ合衆国(ウィルミントン)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(メリーランド州)

伝記

ダニエル・ネイサンズは、1928年10月30日にデラウェア州ウィルミントンで生まれたアメリカの微生物学者、遺伝学者である。両親のサラ(旧姓レヴィタン)とサミュエル・ネイサンズはロシア系ユダヤ人の移民で、9人きょうだいの末っ子だった。世界恐慌の時期には、父が営んでいた小さな事業を失い、長い間失業していた。公立の学校に通ったのち、デラウェア大学に進み、化学を中心に哲学や文学も学んで、1950年に化学の学士号を得た。1954年にはミズーリ州セントルイスのワシントン大学で医学博士の学位を受け、コロンビア大学附属の長老派病院で、ロバート・ローブのもとで1年間のインターンを務めた。

医学の研修を始める前に一息つこうと、メリーランド州ベセスダの国立癌研究所で臨床医の職を得た。そこでは、実験的な化学療法を受ける患者の診療と、マウスで見つかったばかりの形質細胞腫の研究に時間を割いた。ヒトの多発性骨髄腫に似た腫瘍だった。癌の生物学についてわかっていることの少なさに驚き、骨髄腫の細胞でのタンパク質合成に関心を持って、最初の論文を発表した。1957年にコロンビア大学の病院に戻って再びローブの下で2年間の研修医生活を送りながらも、時間の許すかぎりタンパク質合成の問題に取り組んだ。1959年に研究に専念する決心をして、ニューヨークのロックフェラー大学にあるフリッツ・リップマンの研究室で研究員になった。

1962年にジョンズ・ホプキンス大学に微生物学の助教授として迎えられ、1965年に准教授、1967年に教授へと昇進した。その後はジョンズ・ホプキンス大学に長く在籍し、大学を離れたのは、1969年にイスラエルのレホボトにあるワイツマン科学研究所で過ごした1年だけである。1972年から1982年までは微生物学教室の主任を務め、教室はのちに分子生物学・遺伝学教室と名を改めた。1982年にはハワード・ヒューズ医学研究所の研究員にもなり、1995年から1996年には大学の学長代行を務めた。

最もよく知られる仕事は、制限酵素とその分子遺伝学への応用である。ハミルトン・スミスの協力で細菌から分離した制限酵素を使い、サルのウイルスSV40のDNAの構造を調べた。SV40は、癌を起こす既知のウイルスのなかで最も単純なものとされる。この研究から、DNA分子上の特定の遺伝子の位置を決める制限地図の技術が生まれ、ネイサンズはウイルスのゲノムで初めてこの地図を作った。これは現代の遺伝子操作の土台となり、癌の分子的な基盤を探る最初の応用でもあった。1976年に米国科学アカデミーの分子生物学賞、1978年にヴェルナー・アルバー、ハミルトン・スミスとともにノーベル生理学・医学賞を受け、1993年にはアメリカ国家科学賞を授与された。制限酵素と遺伝子地図の研究は、遺伝子工学の発展と生物医学の進歩の土台になったと評価されている。この研究は、嚢胞性線維症や鎌状赤血球症の出生前検査の開発にも重要な役割を果たした。1999年11月16日にメリーランド州ボルティモアで死去し、ジョンズ・ホプキンス大学の遺伝医学研究所には、ビクター・マキュージックとともにその名がつけられている。

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