HISTORICAL PERSON · 1999年没

ジュリウス・ニエレレ

タンザニアの初代大統領。教師から政治家に転じ、タンガニーカ・アフリカ民族同盟を創設して独立を導き、「国家の父」と呼ばれた。

生涯
1999年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
タンザニア連合共和国(Butiama)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

ジュリウス・カンバラゲ・ニエレレは、1922年にタンガニーカのビクトリア湖岸にあるブティアマで生まれた政治家で、タンザニアの初代大統領である。生まれた日は7月19日とも4月13日ともいわれる。少数民族ザナキ族の首長の家に生まれ、母は22人いる父の妻の一人だったとも、父には26人の子がいたとも伝えられる。12歳で小学校に入り、1937年にタボラの中等学校に進んだ。のちに、この学校をアフリカでイートンに最も近い学校と振り返っている。1943年にカトリックの洗礼を受けて、ジュリウスの名を得た。

ウガンダのマケレレ大学を卒業し、小学校の教師として勤めたことから、長く「先生」を意味するムワリムの愛称で呼ばれた。1949年から1952年までイギリスのエディンバラ大学大学院で歴史学と経済学を学んだ。帰国後は教職に戻りつつ政治活動を始め、1954年にタンガニーカ・アフリカ民族同盟の創設者の一人となって党首に就いた。社会的平等、民族間の平和、独立を掲げた活動への支持は全土に広がり、非暴力を説くガンディーの影響も受けたとされる。1960年の選挙で同盟が圧勝すると植民地政府の首相に就き、1961年の独立で初代首相となったが、翌年初めに党の建て直しに専念するため辞任した。1962年に大統領制が敷かれると初代大統領に選ばれた。

1964年1月のザンジバル革命の後、ザンジバルの大統領から連邦制を申し出られてこれを受け、4月にタンガニーカとザンジバルの連合国家の大統領となった。1967年2月にはアルーシャ宣言を発し、銀行や企業の国営化などによる社会主義化を進めた。アフリカの伝統に根ざしたウジャマーと呼ばれる農業集団化を重視した政策は、旱魃による食糧生産の減少、輸出作物の軽視、1970年代の石油危機による原油高で失敗した。中国から戦車や戦闘機の援助を受け、タンザン鉄道も建設され、ニエレレは毛沢東の影響で人民服に似た服を愛用した。1967年6月には東アフリカ諸国と協力条約を結び、アルーシャに東アフリカ共同体の本部が置かれた。公用語としてのスワヒリ語の教育の拡充にも努めた。対外的には、白人政権のローデシアや南アフリカと対決する国々の議長を務め、反政府ゲリラ組織への支援も行った。

1977年にはタンガニーカの党とザンジバルの党を統合してタンザニア革命党を設立した。1978年にウガンダのアミン大統領がタンザニアに侵攻すると、これに反撃して翌年に首都カンパラまで進み、アミン体制を倒した。この行為は内政不干渉の原則に反するとして、アフリカ統一機構の加盟国で物議を醸した。1980年代にはインフラが崩壊し、塩のような日用品も不足したため、経済運営の失敗の責任をとって1985年に大統領を退き、後任はザンジバル出身のアリ・ハッサン・ムウィニとなった。党首の座には1990年までとどまった。

私財を蓄えず質素な暮らしを貫き、国家財政が苦しいときには自分の給与を削ったという。退任後は故郷の農家で農民として暮らし、ブルンジの内戦を終わらせる試みでは調停役も務めた。1995年にはガンディー平和賞を受けた。1999年10月14日にロンドンで死去した。タンザニアでは「国家の父」と呼ばれている。

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