伝記
フラニョ・トゥジマンは、1922年5月14日にクロアチア北部のヴェリコ・トルゴヴィシュチェで生まれた政治家であり、クロアチア共和国の初代大統領である。姓はツジマンと表記されることもある。第二次世界大戦中の1941年に共産党に入党してパルチザンに加わり、戦後はユーゴ人民軍の最年少で将軍になった。1958年からパルチザンというスポーツクラブの会長を務め、1961年に上級大将の階級で連邦軍から退役すると、ザグレブの労働者運動大学の学長になった。1965年にはザグレブ大学で歴史学の博士号を取得した。しかしクロアチアの民族主義運動に加わった容疑で1972年と1981年の2度逮捕され、軍の階級と勲章を剥奪された。
1980年にチトーが没すると、連邦の中核であるセルビアで民族主義が高まり始め、多くのクロアチア人が家や職場を追われて難民となったとされる。こうした人々の支持を受けたトゥジマンは、1989年にクロアチア民主同盟を創設し、独立運動の指導者として頭角を現した。1990年の自由選挙で同盟が大勝すると、議会によって初代大統領に選ばれた。同年12月に憲法が改正され、連邦から離脱する権利やクロアチア人の民族自決が明記された。しかし、共和国内のセルビア人にもクロアチア語の使用などを求める内容は、同化政策だとしてセルビア人の側から強く反発された。国内のセルビア人は自治区を設けて対立し、トゥジマン政権を第二次世界大戦中のウスタシャの復活だと非難した。
1991年6月25日、国民投票で圧倒的な独立支持を得たクロアチアはスロベニアとともに連邦からの独立を宣言した。7月にはセルビア人将校が中心の連邦軍が「共和国内のセルビア人の保護」を掲げて侵攻し、10月には自治区のセルビア人勢力も蜂起して内戦となった。クロアチアには警察を強化した「警察軍」しかなく、装備に劣ったまま各地で抵抗したが、地方の都市は砲撃で大きな被害を受けた。11月にEUの仲介で停戦に合意し、国連保護軍が派遣される一方、12月にはセルビア人勢力がクライナ・セルビア人共和国の独立を宣言し、クロアチアは国土の大きな部分を失った。1992年1月の停戦で名実ともに独立を果たし、同年にトゥジマンは直接選挙で大統領に再任された。
ドイツと友好を結び、アメリカにも接近して重火器の供給と軍事教練を受け、警察軍はクロアチア共和国軍に昇格して強化された。1993年にヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国を樹立させ、ボスニア・ヘルツェゴビナの紛争にも介入した。1994年に提示された、セルビア人に一定の自治を認める和平案を政権は拒否した。1995年5月に西スラヴォニアを回復し、8月に「嵐作戦」でクライナ・セルビア人共和国を制圧すると、住民の大部分にあたる約20万人が難民としてセルビアへ退避した。紛争前に人口の12パーセントを占めたセルビア人は、紛争後に5パーセント以下に減った。1998年1月には東スラヴォニアの施政権も移管された。
1997年6月に3期目に再選されたが、1999年に胃癌のため入院し、行政権は議会議長に委譲された。1999年12月10日に死去した。クロアチアでは独立の父として称えられる一方、その手腕は独裁的とも言われ、セルビア側からは大クロアチア主義の野心家と見なされている。
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