伝記
エドマンド・スペンサーは1552年頃に生まれ、1599年1月13日に没したイングランドの詩人で、エリザベス1世の時代に活躍した。父は仕立て職人のジョン・スペンサーである。少年期にはロンドンのマーチャント・テイラーズ・スクールで学び、ケンブリッジ大学ペンブルック・カレッジに奨学生として入学を許可された。最も有名な作品は叙事詩『妖精の女王』で、1590年、1596年、1609年に刊行された。ほかに『羊飼いの暦』(1579年)、『アモレッティ』(1595年)などの作品がある。
1570年代にアイルランドへ渡り、おそらく新しく赴任した総督アーサー・グレイに仕えていたものと思われる。1579年から1580年にかけての二度目のデズモンドの反乱では、イングランド軍に加わって戦った。反乱の制圧後、テューダー朝によるアイルランド再征服が進み、スペンサーはマンスター植民で没収されたコーク県の土地を与えられた。同じ地域にはウォルター・ローリーもいた。
スペンサーは自作の詩によって宮廷での地位を得ることを望み、『妖精の女王』を届けるためにローリーに同伴して宮廷を訪れた。しかし大胆にも、女王の第一秘書であるバーリー男爵ウィリアム・セシルを敵に回してしまい、作品の報償として得たのは1591年の年金だけだった。叙事詩に対して100ポンドの報償が提案された時、バーリー男爵は「たかが歌一つにそこまでするのか」と言ったという。1590年代の初めには、散文の小論文『アイルランドの現状に対する見解』を書いた。これは17世紀中頃に印刷物として出版されるまで手書きのままで、生前に印刷されなかったのは、おそらくその扇動的な内容が理由だろうとされる。固有の言語や習慣が暴力によって破壊されるまで、アイルランドがイングランドに完全に制圧されることはないだろうというのが、その主張であった。
1598年の九年戦争では、アイルランド反乱軍によって家を追われた。北コークのキルコルマンにあった城は焼かれ、その火事で幼い子の1人が死んだ。地方の言い伝えでは、妻も一緒に亡くなったという。翌1599年にロンドンを訪れたが、そこで困窮のうちに亡くなった。46歳だった。棺は詩人たちによって運ばれ、埋葬の際には、涙とともにたくさんのペンや詩が棺の上に投げ込まれたと伝えられる。
詩の中では、わざと古風な言葉遣いを用いた。それはジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』のような昔の作品を思わせるもので、チョーサーこそ彼が崇拝する人物だった。『妖精の女王』を含むいくつかの作品では、スペンサー詩体と呼ばれる特徴的な韻文形式を用いた。主な韻律は弱強五歩格で、押韻に決まった型があり、最後の行は6韻脚の六歩格となる。この詩体は、イタリアのオッターヴァ・リーマや、チョーサーらが使った帝王韻律の影響を受けたのかもしれないとされる。のちにロバート・バーンズが用いたことで知られるが、その後は使われなくなり、1800年代に入ってバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡礼』、キーツ、シェリーらの作品で復活した。1595年の『祝婚歌』は若妻エリザベス・ボイルとの結婚式のために書かれた詩で、365行から成り、それは1年の日数に対応する。24の詩節は1日の時間に対応するという。この様式で英語で書かれた作品のうち、最も賞賛されているものである。
同じ年に亡くなった人物
- 長宗我部元親 (1599年没)
- カタリーナ・レナータ・フォン・エスターライヒ (1599年没)
- Eknath (1599年)
- フランシスコ・ゲレーロ (1599年没)
- Pedro da Fonseca (1599年没)
同じ地域に関係する人物
- ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公) (1765年没)
- クレメンツ・マーカム (1916年没)
- エドマンド・アンドロス (1714年没)
- ジョシュア・ブルックス (1833年没)
- アーサー・エドワード・ウェイト (1942年没)