伝記
ジャン=フランソワ・リオタールは、1924年8月10日にヴェルサイユで生まれたフランスの哲学者である。父ジャン=ピエールは販売員、母はマドレーヌ・カヴァッリといった。パリのリセ・ビュフォンと、ルイ・ル・グランに学んだ。子供のころには、芸術家、歴史家、ドミニコ会の修道士、作家など、さまざまな将来を思い描いたという。だが15歳のときに小説を書き上げたもののうまくいかず、作家になる夢は諦めたとされる。これらのどれもが自分の「運命」にならなかったと、のちに自伝で振り返っている。
第二次世界大戦が始まると学業を中断し、フランス軍の救急のボランティアとして働き、1944年8月のパリ解放の戦いにも加わった。戦争で目にした破壊と荒廃や、社会主義への期待に引かれて、戦後はマルクス主義に傾倒した。ソルボンヌで哲学を学び、1947年に、禅やストア派、道家、エピクロス派にみられる無関心と超然を論じた「倫理的概念としての無関心」と題する論文で修了した。卒業後は国立科学研究センターで職を得ている。モーリス・メルロ=ポンティに学んで現象学にも関心を持ち、1954年に初の著作『現象学』をクセジュ叢書の一冊として発表した。この哲学の流れを分かりやすく見渡した入門書である。
1950年にアルジェリアのコンスタンティーヌにあるリセに職を得て、哲学の教師となった。ここで急進的なマルクス主義者として活動し、アルジェリア独立戦争を現地で体験した。帰国後の1968年にはパリ五月革命に加わった。その後はパリ第8大学の教授などを務めた。1971年にはミケル・デュフレンヌの指導のもと、『言説、形象』で国家博士号を取得し、この論文はその年のうちに出版された。1960年代にはマルクス主義から離れ、欲望を不可能なものの探求と捉える、精神分析、とりわけラカンに近い考え方に傾いた。この時期には絵画の分析にも踏み込み、セザンヌの作品を、無意識の衝動の流れから生まれたものとして論じている。
1970年代に『リビドー経済』(1974年)や、主著『ポストモダンの条件』(1979年)を著した。後者では「大きな物語の終焉」を唱え、「ポストモダン」という語を流行語にした。のちに「知識人の終焉」も唱えている。『文の抗争』では、人間の言説は互いに比べることのできない、いくつもの領域で行われ、そのどれにも他を裁く特権はないと論じた。ジャック・デリダ、フランソワ・シャトレ、ジル・ドゥルーズとともに、国際哲学コレージュの共同設立者にもなった。ほかに『熱狂』『ハイデガーと「ユダヤ人」』『非人間的なもの』などの著書がある。関心は認識論、身体、近現代の美術、文学、音楽、映画、時間と記憶、崇高、美学と政治の関係など、きわめて広かった。カントやマルクス、ヘーゲル、フッサール、ハイデガー、フロイト、ラカン、ヴィトゲンシュタイン、ドゥルーズなどの仕事が、その思考の手がかりになったとされる。
私生活では、1948年にアンドレ・メイと結婚し、娘のコリーヌとローランスをもうけた。1993年にはドロレスと再婚し、1986年生まれの息子ダヴィッドがいる。1998年4月21日にパリで亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- エヴァ・バルトーク (1998年没)
- アレン・ドルーリー (1998年没)
- テオドール・オーベルレンダー (1998年没)
- Ake Seyffarth (1998年没)
- マーサ・ゲルホーン (1998年没)
同じ地域に関係する人物
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