伝記
フレデリック・ライネスは、1918年3月16日にアメリカ合衆国ニュージャージー州パターソンで生まれた物理学者である。ロシアの同じ町から移民してきたユダヤ系の両親、イスラエルとガッシーの四人の子の末っ子で、姉のポーラは医師に、二人の兄デイヴィッドとウィリアムは弁護士になった。勉強熱心なきょうだいに早くから影響を受けたと、のちに語っている。一家はニューヨーク州ヒルバーンに移り、父が雑貨店を営んだ。少年期の思い出は、この田舎の店と小さな町の暮らしを中心にしていたという。ボーイスカウトでは最高位のイーグル・スカウトになった。合唱団で歌い、ソロも務めて、一時は歌手になる道を考えた。家に金がなかったため、メトロポリタン歌劇場の声楽家が無料で教えてくれたとされる。
科学への関心は、宗教学校の授業が退屈だった夕暮れ、手を丸めて望遠鏡に見立てて窓の外を眺めていて、光の回折という現象に気づいたことから芽生えたと、本人は振り返っている。高校の最初の一年は、文学や歴史が得意な一方、理科と数学の成績は平凡か低めだった。しかし教師が理科実験室の鍵を貸してくれたのをきっかけに成績が伸び、卒業アルバムには「並外れた物理学者になりたい」と書いた。マサチューセッツ工科大学にも合格したが、ホーボーケンのスティーブンス工科大学に進み、1939年に機械工学の学士号、1941年に数理物理学の修士号を得た。1940年にシルヴィア・サミュエルズと結婚し、二人の子をもうけている。続いてニューヨーク大学に進み、1944年に博士号を取った。
1944年、リチャード・ファインマンに誘われて、マンハッタン計画のロスアラモス研究所の理論部門に入り、以後15年にわたってそこで働いた。ハンス・ベーテの率いる理論部門の中で、ファインマンのグループに加わり、1946年6月にはグループの責任者となった。複数の核実験にも参加し、1951年には太平洋で行われた一連の核実験「グリーンハウス作戦」の責任者を務めた。
1950年代の初めにクライド・カワンとともに、ニュートリノを検出する実験に取り組んだ。ニュートリノは電荷を持たず、検出が難しい。そこで二人は、ニュートリノを陽子や中性子に衝突させ、荷電粒子が出す蛍光をとらえる方法をとった。発生源として核爆発実験の直下に置く案も検討されたが、実現しなかった。1953年には原子炉の炉心から2メートルほどの位置に検出装置を置き、原子炉を動かすと信号が増えることを確かめた。1954年から大型の装置をつくり、ニュートリノの発生頻度を測って、理論で予測されていたニュートリノの存在を証明した。確かな検出は1956年6月とされる。
のちにケース・ウェスタン・リザーブ大学で働き、新設されたカリフォルニア大学アーバイン校の物理学部の責任者となった。宇宙線が大気中でつくるニュートリノの検出や、1987年の超新星からのニュートリノの検出にも関わり、ニュートリノ天文学の幕を開いたとされる。1983年にアメリカ国家科学賞、1992年にパノフスキー賞とフランクリン・メダルを受け、1995年にノーベル物理学賞を受賞した。1998年8月26日に亡くなった。
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