伝記
ジャン・マレーは、1913年12月11日にフランス北西部のシェルブールで生まれた俳優である。出生証明書の名はジャン・アルフレッド・ヴィラン・マレーで、父アルフレッドは獣医、母はアリーヌ・マリー・ルイーズ・ヴァソールといった。本人はマレーこそ本当の姓だと考えていたと語り、父もすでにそう名乗っていたという。兄アンリのほかに、1911年に生まれて2年後に亡くなった姉がいた。母はその死を悲しみ、ジャンを身代わりの子のように扱って、2歳まで女の子の服を着せたとされる。1914年に父はヴェルダンの戦線へ送られ、1918年に重傷を負って戻り戦功十字章を受けたが、9歳と5歳の息子たちは父の顔を覚えておらず、「ムッシュー」と呼んだという。母は親権を失うことを恐れ、夫のもとを去って二人の息子と、自分の母と叔母とともにパリ近郊のル・ヴェジネ、次いでシャトゥーに移り住んだ。こうしてジャンは父とほとんど会わず、女たちの手で育てられた。母はたびたび窃盗癖のために投獄され、手紙は叔母が宛名を書き、届く母の手紙はいつも封が切られていたという。父とは約40年後まで再会せず、母はそのとき、本当の父は名づけ親のウジェーヌ・ウダイユだったと打ち明けたが、この話は父の友人の医師によって否定されている。
幼いころから母に連れられてよく映画館に通い、女優パール・ホワイトの騎馬の場面やスタントに憧れて、同じ仕事に就きたいと思った。ダグラス・フェアバンクスやメアリー・ピックフォードも好きなスターだった。学校では暗誦と体操以外はひどい成績で、乱暴でうそつきの不良の首領になり、1921年から通ったサン・ジェルマン・アン・レーの学校を退学になった。1923年に入ったプティ・コンドルセ校では成績表を偽造し、13歳でジャンソン・ド・サイイ校の寄宿生となるなど、学校生活は混乱を極めた。
1933年に映画に初めて出演し、1937年にジャン・コクトーと知り合った。舞台では、コクトーの当たり作である1937年の『オイディプス王』、翌年の『恐るべき親達』、1941年の『タイプライター』で世に出て、『恐るべき親達』の主役で俳優としての地歩を固めた。コクトーは彼の長年の愛人であったとされる。第二次世界大戦に出征したのち、舞台と映画で活躍した。1943年の映画『悲恋』でフランスの若者の偶像となり、戦後は『美女と野獣』や『双頭の鷲』、『オルフェ』など、ほとんどのコクトー作品に出演した。コクトーの没後も、その思い出を守り続けた。
1950年代からは剣劇映画の人気者となり、『城塞の決闘』や『華麗なる騎士道』、『パリの秘密』などで冒険の主役を演じ、危険な場面の大半を自分でこなしたという。1960年代には『ファントマ』三部作などで現代的なアクションやスパイ映画に転じた。1957年には岸惠子と共演する『忘れえぬ慕情』の撮影のため来日している。1970年の『ロバと王女』以後は出演が減り、演劇に力を注ぎ、ヴァロリスで彫刻家、陶芸家としても知られた。1983年にはコクトーの生涯を一人芝居で演じ、1985年に来日上演した。1993年にセザール名誉賞を受けた。1998年11月8日、血液の病気のためカンヌで没した。84歳であった。
同じ年に亡くなった人物
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- ロートン・チャイルズ (1998年没)
- ジェームズ・アール・レイ (1998年没)
- エリック・アンブラー (1998年没)
- ヘレン・ウェスコット (1998年没)
同じ地域に関係する人物
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- ヴィクトル・クザン (1867年没)
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