伝記
トドル・フリストフ・ジフコフは、1911年9月7日に生まれ、1998年8月5日にソフィアで没したブルガリアの政治家である。ブルガリア共産党書記長を1954年から1989年まで、閣僚評議会議長(首相)を1962年から1971年まで、国家評議会議長(元首)を1971年から1989年まで務め、同国の最高指導者として35年にわたって君臨した。
プラヴェツの貧しい農民の家に生まれ、青年期に職を求めてソフィアに移り、印刷関係の学校に受け入れられた。そこでマルクス主義に近づき、1930年に共産主義青年同盟に加わり、その2年後に共産党の青年組織コムソモールの一員となった。第二次世界大戦でブルガリアが枢軸国側に立つと、ナチス・ドイツに対する抵抗運動に加わり、人民解放反乱軍の一員として活動し、1944年9月9日の革命にも参加した。戦後は首都ソフィアの警察組織の長となり、政敵の排除に重要な役割を果たしたとされる。1945年に党中央委員会に入り、親ソ政権を支持して、熱心なスターリン主義者として地位を上げた。1949年にはトライチョ・コストフの反逆罪裁判で尋問にかかわった。1951年に政治局員となり、1954年3月に党の第一書記(のち1981年から書記長)に就いて、東欧諸国で最も若い指導者となった。当初は無名に近い人物とみられていたという。
フルシチョフがスターリン批判の秘密演説を行ったのちに党はフルシチョフ路線へ進み、ジフコフは1962年に首相を兼ね、ユゴフらを退けて権力を一手に握った。1971年7月7日からは新設の国家評議会議長となった。ソ連のフルシチョフ、ブレジネフの支持を背景に、ソ連の支援のもとで農業国ブルガリアの工業化を進め、ソ連への完全な服従を特徴とする統治のもとで、ブルガリアにとって前例のない政治的・経済的な安定の時期を築いたと評される。反対派は厳しく抑えられ、劇作家のゲオルギー・マルコフのように国外へ逃れる者もいた。そのマルコフは、1969年に亡命してBBCワールドサービスなどでブルガリアの政権を批判していたが、1978年にロンドンでリシンを仕込んだ弾丸で毒殺された。ジフコフがKGBに依頼し、ブルガリア内務省の工作員が実行したと考えられている。
1980年代に入ると工業化による成長は頭打ちとなった。1982年に企業の独立採算制や外資導入などの経済改革を図ったが、1984年には体制が強化されて政治改革は進まなかった。同じ年に、トルコ系住民にスラヴ名を強いる同化政策を行い、反発を招いた。1989年にはトルコ系住民をトルコへ追放し、労働人口の減少などでブルガリア経済は悪化した。まだ30代の息子ウラジーミルを党の要職に就けるなど、縁故主義や汚職も増した。東欧で民主化が進むなか、1989年11月10日に書記長を辞した。背景には世論の圧力や国際的な評判の悪化、改革派の党幹部らの動きがあったとされ、後継の書記長には外相ペータル・ムラデノフが就いた。ジフコフは11月17日に国家評議会議長も辞し、党を追放されて自宅軟禁となり、公金横領罪で起訴されて1992年に懲役7年の判決を受けた。晩年は肺炎で亡くなったとされる。1970年の大阪万博で初来日して以来、日本の経済発展に感銘を受け、合計3度訪日した。
同じ年に亡くなった人物
- Gregor von Rezzori (1998年没)
- Ernest Peirce (1998年没)
- ジャッキー・ブランチフラワー (1998年没)
- エルンスト・イジング (1998年没)
- Eric Tabarly (1998年没)
同じ地域に関係する人物
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- Germanus (551年没)
- ランゲル・ゲロフスキ- (2004年没)
- ドーブリ・フリストフ (1941年没)
- ペトル・ガブロフスキ (1945年没)