伝記
三船敏郎は、1920年4月1日に中国山東省の青島で、父・徳造と母・センの長男として生まれた日本の俳優である。徳造は秋田県の漢方医の息子で、満州に渡って貿易商や写真師となり、青島と営口で写真館を営んでいた。1925年に一家は日本の租借地だった大連に移り、市内で転居を重ねて小学校を転校した。1934年に大連中学校へ入ると、病気で入院がちになった父に代わってスター写真館の仕事を手伝うようになった。目が届かなくなったのをいいことに、盛り場で遊び、映画をたくさん観る暮らしを送ったという。
1940年に徴兵検査で甲種合格となり、陸軍に応召された。公主嶺の航空教育隊では写真の経験を買われて写真部に配属され、のちに滋賀県の八日市飛行場で、赤外線カメラで撮った航空写真をつなぎ合わせて地図を作る仕事に従事した。戦地には赴かなかったが、上官に反抗的だったため、終戦まで上等兵のままだった。1945年には熊本県の隈庄飛行場の特攻隊基地に配属され、出撃する少年航空兵を教育し、出陣前に遺影を撮影した。終戦のときには両親がすでに亡く、大連の写真館も爆撃で焼け落ちており、帰る場所も迎えてくれる家族もなかったという。
復員後は横浜で進駐軍の荷物を運ぶ肉体労働をしながら、弟の芳郎や妹の君子と再会した。航空教育隊時代の先輩で東宝撮影所の撮影部にいた大山年治を訪ね、撮影助手にと頼んだが空きがなく、募集中の第1回東宝ニューフェイスに合格すれば道が開けると助言されて、渋々受験した。1946年6月の面接では不機嫌な態度で顰蹙を買ったが、補欠として合格し、応募者4000人のうち男性16人、女性32人の合格者の一人となった。同期にはのちに妻となる吉峰幸子もいた。採用の経緯には諸説あり、黒澤明は審査委員長の山本嘉次郎が推したと語るが、三船本人は山本が救ったという話を否定している。
デビュー作は、谷口千吉監督、黒澤明脚本の『銀嶺の果て』(1947年)で、雪山に逃げ込む銀行強盗の一人を演じた。1948年の黒澤監督『醉いどれ天使』で破滅的に生きるヤクザを演じてスターとなり、以後15本の黒澤映画に主演した。『羅生門』はヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受け、『用心棒』と『赤ひげ』で同映画祭の男優賞を得た。黒澤は三船に思うままに演じさせ、『七人の侍』の菊千代の演技プランも三船の発案だった。
1961年には初の海外主演作『価値ある男』でメキシコ人を演じ、1966年の『グラン・プリ』でハリウッド映画に初めて出演した。1962年に三船プロダクションを設立し、翌年に『五十万人の遺産』で初監督を務め、これが唯一の監督作品となった。1966年には成城に撮影所も建設し、1968年の『黒部の太陽』、1969年の『風林火山』はその年の日本映画の興行成績で1位となった。1975年にはドイツのミュンヘンで日本料理店を開いて経営し、1977年から翌年にかけては『日本の首領』シリーズで初めて東映作品に出た。海外からの出演依頼は多かったが、日本映画への出演を優先してほとんどを断っている。スター・ウォーズの制作時にはジョージ・ルーカスから出演の打診があったとされるが、侍のイメージが傷つくのを案じて断ったと伝わる。1984年には撮影所を閉鎖して経営を縮小した。1950年に吉峰幸子と結婚して長男・史郎をもうけた。1997年12月24日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ロジェ・マルシュ (1997年没)
- ジョイス・コンプトン (1997年没)
- ウィリアム・S・バロウズ (1997年没)
- カレン・ヴェッターハーン (1997年没)
- Alfons De Winter (1997年没)