HISTORICAL PERSON · 1997年没

ハイム・ヘルツォーグ

1983年から1993年までイスラエルの大統領を務めた。アイルランド生まれで、それ以前はイギリス陸軍とイスラエル国防軍に所属した。

生涯
1997年没
死亡地
イスラエル(エルサレム地区 / エルサレム)
出生地
イギリス連邦(ベルファスト)
出典
世界地図
イスラエル(エルサレム地区)

伝記

ハイム・ヘルツォーグは、1918年9月17日にアイルランドのベルファストで生まれ、1997年4月17日に亡くなったイスラエルの政治家、軍人、法律家である。1983年から1993年までイスラエルの大統領を務めた。父は著名なラビのイツハク・ハレヴィ・ヘルツォーグで、1919年から1937年までアイルランドのチーフ・ラビを務め、のちにパレスチナとイスラエルでもアシュケナジのチーフ・ラビになった。父はアイルランド独立の側を支持したため、「シン・フェインのラビ」と呼ばれたという。

生後まもなく一家はダブリンに移り、ヘルツォーグはウェスリー・カレッジなどで学んだ。若いころはクリケットやラグビー、ボクシングに親しみ、ボクシングでは少年のバンタム級の王者になったとされる。正統派ユダヤ教の家に育ち、シオニストであったことから、1935年にパレスチナへ移住した。1936年から1939年のアラブ暴動の間は、ユダヤ人の準軍事組織ハガナーに加わって従軍した。その後イギリスでユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに進んで法学の学位を取り、リンカーンズ・イン法学院でバリスターの資格を得た。

第二次世界大戦中はイギリス陸軍に入り、機甲師団の戦車指揮官などとしてドイツでの作戦に加わった。「ハイム」という名がイギリス人に発音しにくかったため、「ヴィヴィアン」という渾名で呼ばれたという。1943年にはインテリジェンス・コープスの一員となり、捕らえられたドイツ兵がハインリヒ・ヒムラーであると特定し、いくつかの強制収容所の解放にも加わった。1947年に少佐で軍を離れた。

戦後はパレスチナに戻り、イスラエル建国後の第一次中東戦争ではラトルンの戦いで将校として戦った。その諜報の経験が評価され、1948年から1950年と、1959年から1962年にかけてイスラエル国防軍の諜報局長を務め、アメリカのイスラエル大使館では駐在武官にもなった。1962年に少将で軍を退き、法律事務所を開いた。1967年の六日間戦争では国営放送局コル・イスラエルの軍事解説者として公の場に戻り、ヨルダン川西岸の占領後は、東エルサレムとユダヤ・サマリア地区の初代軍事総督に任命された。1972年にはマイケル・フォックス、ヤアコヴ・ネエマンとともに、国内最大級の法律事務所の一つを設立した。

1975年にイスラエルの国連大使となり、1978年まで務めた。この間に国連総会が「シオニズムは人種主義である」とする決議3379を採択すると、ヘルツォーグはこれを批判し、象徴的に決議文を破り捨てた。1981年の選挙で初めて政界に入り、アラインメントの一員としてクネセトの議席を得た。1983年に第6代大統領に選ばれ、5年の任期を2期務めて、1993年に政界を退いた。大統領としてはドイツを公式訪問した最初のイスラエル大統領となり、1985年には母校ウェスリー・カレッジを訪れ、ダブリンでアイリッシュ・ユダヤ博物館を開いた。一方で、シャバクに対する特赦や、ヘブロンでのパレスチナ人殺害で終身刑を受けたユダヤ人受刑者3人の減刑でも論争を生んだ。1995年にイツハク・ラビンが暗殺されると、バル=イラン大学で怒りを込めた演説を行った。エルサレムのヘルツルの丘に葬られ、息子のイツハク・ヘルツォーグも2021年に大統領に就任している。

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