伝記
ヨハン3世は、スウェーデンのヴァーサ王朝第3代の国王で、フィンランド大公でもある。1537年12月20日、ステゲボリ城で、グスタフ1世と二度目の王妃マルガレータ・レイヨンフーヴドの長男として生まれた。在位の始まりは1568年とも1569年ともいわれる。
1556年に父からフィンランド公領を与えられた。父はロシアの脅威からバルト海東岸を守る狙いで、息子をフィンランドに置いたが、ヨハンはリヴォニアの問題で父に隠れて口を出すなど、たびたび父の不興を買ったという。兄のエリク14世に協力し、その使者としてロンドンに赴き、エリザベス女王への求婚を試みたが、この使節は失敗に終わった。一方でイングランドでプロテスタントの再導入と祈祷書の導入を目にし、典礼や神学に関心のあった彼はこれに惹かれたとされる。同じころ、女官のカリン・ハンスドッテルと1556年から1561年まで暮らし、4人の庶子をもうけた。子らはギレンヒェルムの姓を名乗った。
エリク14世が即位して貴族の力を削り権力を集中させると、兄弟は不和になった。決定的だったのは、1562年10月4日、ヴィリニュスでポーランド王ジグムント1世の娘カタジナと、エリクの意に反して結婚したことである。エリクはポーランドと戦っており、ヨハンはその王から、12万ダーレルの前貸しの見返りにリヴォニアの城を担保に受ける約束をした。これはアルボガ条項に反するとされ、1563年6月に国民議会は反逆罪を宣告して、生命や財産、王位継承権を奪った。ヨハンはトゥルク城に立てこもったが、数週間で降伏し、グリップスホルム城に妻とともに幽閉された。囚われの身は4年以上に及び、待遇は比較的緩やかで、書物を大量に受け取り、勉強や妻との会話に時間を費やした。三人の子はこの間に生まれた。1567年秋にエリクの精神病が深まると、10月に釈放され、弟カール(のちのカール9世)とともにクーデターを起こしてエリクを廃位させた。
即位後は教会改革や財政改革を行った。ポーランド王女と結婚していたためかカトリックに好意的で、長男シギスムンドをカトリック教徒として育て、ポーランドで教育を受けさせたが、自身はカトリックへ改宗せず、ルター派との対立を避けた。1581年にはフィンランドの貴族層の要請を受けてフィンランド大公が創設された。デンマークとの北方七年戦争を引き分けに持ち込み、リヴォニア戦争ではロシアを撃破して、フィンランドの国境を東へ広げたが、1590年にはロシア・スウェーデン戦争が始まった。1583年にカタジナと死別し、その後、グニラ・ビェルケと再婚した。再婚の年は1584年とも1585年ともいわれ、息子ヨハンをもうけた。
1587年、息子シギスムンドがポーランド王に迎えられ、ポーランド・ヴァーサ朝が始まった。しかしカトリックとして育てられた王が両国を治める同君連合には、スウェーデンの上層部に不満が高まり、ヴァーサ朝に亀裂が走った。ヨハン3世はこの問題を解決しないまま、1592年11月17日に世を去った。この間の摂政は弟のカールに任された。息子はカトリックのまま王位を継いでスウェーデン王シギスムンドと名乗ったため、のちにスウェーデンの王位請求権をめぐる問題が生じ、1660年のオリヴァ条約によって消滅した。
同じ年に亡くなった人物
- ミヒール・コクシー (1592年没)
- ヴィルヘルム5世 (ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公) (1592年没)
- エルンスト・ルートヴィヒ (ポメラニア公) (1592年没)
- ミシェル・ド・モンテーニュ (1592年没)
- ヴィルヘルム4世 (ヘッセン=カッセル方伯) (1592年没)
同じ地域に関係する人物
- アルヴィド・ポッセ (1901年没)
- グスタフ1世 (スウェーデン王) (1560年没)
- エバート・タウベ (1976年没)
- ハラルド・クラメール (1985年没)
- リリアン (ハッランド公爵夫人) (2013年没)