伝記
エラ・ジェーン・フィッツジェラルドは1917年4月25日、アメリカのヴァージニア州ニューポート・ニューズに生まれたジャズ歌手である。ビリー・ホリデイ、サラ・ヴォーンと並び称される20世紀の女性ジャズ歌手の一人で、「レディ・エラ」「歌のファースト・レディ」とも呼ばれた。両親の仲は不安定で、父は彼女が3歳のころに家を出て、その後は連絡がなかったという。母はよりよい暮らしを求めてニューヨーク州ヨンカーズへ移り、そこで知り合ったポルトガル系の移民と暮らして、1923年に妹のフランシスをもうけた。しかし、この関係も幸福ではなかった。10代半ばで母を心臓発作で亡くし、妹の世話を任された彼女は、学業への関心を失って学校をやめた。義父から暴力を受けたとも伝えられる。やがて叔母のもとに身を寄せたが折り合いが悪くなり、寄宿制の施設に入れられた。そこから逃げ出して路上で暮らし、売春宿や賭博場の見張り役として働いた。警察に補導されて少年院に送られ、そこからも逃げて、街頭で踊って小銭を稼ぎ、近所の先生にピアノを習った。のちに孤児のための施設に約2年入った。
歌手を志していた彼女は、ルイ・アームストロングやビング・クロスビー、ボスウェル・シスターズの録音を愛聴し、とくにコニー・ボスウェルを崇拝していた。1934年11月21日、17歳のとき、ニューヨークのハーレムにあるアポロ・シアターのアマチュア・ナイトに出た。もとはダンスを披露するつもりだったが、直前に踊った地元の二人組に圧倒され、予定を変えてボスウェル風に歌い、優勝した。これをきっかけにチック・ウェブの楽団に見いだされ、翌1935年からハーレムのサヴォイ・ボールルームで同楽団の歌手として歌い始めた。病気療養中のウェブのためにヴァン・アレクサンダーと作った『ア・ティスケット・ア・タスケット』は17週にわたりチャートの首位となり、レコードは100万枚を売った。1939年にウェブが亡くなると、楽団は「エラ・フィッツジェラルドと彼女の有名な楽団」と名を改めて活動を続けた。1941年にソロ活動を始め、1955年にデッカを離れてノーマン・グランツが興したヴァーヴ・レコードに移った。
1956年から1964年にかけて作った8枚の「ソングブック」シリーズが、代表作となった。コール・ポーター、ロジャーズ&ハート、デューク・エリントン、アーヴィング・バーリン、ガーシュウィン兄弟、ハロルド・アーレン、ジェローム・カーン、ジョニー・マーサーの作品を取り上げ、編曲者には、バディ・ブレグマン、ネルソン・リドルらが加わった。ライブ盤では、ローマ、ベルリン、ジュアン・レ・パンなどでの録音が現在も評価される。1970年代にはグランツのパブロ・レコードから多数の作品を出したが、健康が悪化して声に衰えが見え、1989年のアルバムが最後となった。1941年にベニー・コーネゲイと結婚したが、麻薬の密売と詐欺で彼が有罪となり、まもなく解消した。1947年にはベース奏者のレイ・ブラウンと再婚し、養子を迎えたが、1952年に離婚した。晩年は糖尿病で視力を失い、1993年には手術で両足を切断した。1996年6月15日にビバリーヒルズで没した。グラミー賞は13回受けたとされ、14回とする説もある。1975年には日本でも公演を行っている。
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- ソロモン・アッシュ (1996年没)
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