伝記
カトリーヌ・ド・メディシスは、1519年4月13日にフィレンツェで生まれ、1589年1月5日に没したフランス王アンリ2世の王妃である。フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の母でもある。父はウルビーノ公ロレンツォ2世・デ・メディチ、母はオーヴェルニュ伯ジャン3世の娘マドレーヌで、二人は1518年にフランス王フランソワ1世と教皇レオ10世の同盟の一環として結婚していた。同時代の年代記によれば、彼女が生まれたとき両親は男子が生まれたかのように喜んだというが、母は4月28日に、父も5月4日に相次いで亡くなり、孤児となった。
父の死後、ウルビーノ公の称号は奪い返されたため、彼女は父が公爵であり母が女伯爵であるにもかかわらず、比較的低い出自となった。まず父方の祖母に養育され、その死後は叔母に引き取られて従兄弟たちと育った。1523年にメディチ家の枢機卿が教皇クレメンス7世となった。フィレンツェの人々は、公認されていない彼女のウルビーノ公位継承権を尊重して「小公女」と呼んだ。しかし1527年にフィレンツェでメディチ家の政権が打倒されると、人質として女子修道院に入れられた。1529年のフィレンツェ包囲の間には、兵士たちが彼女を驢馬に乗せて通りを引き回し、嘲りを受けさせたという。1530年8月にフィレンツェが陥落すると、クレメンス7世は彼女をローマへ呼び寄せ、涙を流して迎え入れた。
1533年、教皇とフランソワ1世の間で縁組がまとまり、フランスの第2王子オルレアン公アンリと結婚した。同年10月28日にマルセイユで盛大な式が挙げられ、二人は14歳であった。メディチ家出身の娘とフランス王族の結婚は不釣り合いと見る意見もあったが、フランソワ1世はイタリア対策を重んで押し切った。ところが翌年に教皇クレメンス7世が没すると、新教皇パウルス3世は盟約を破棄し、約束されていた巨額の持参金の支払いを拒んだため、宮廷での彼女の立場は悪くなった。夫は妻に関心を示さず、愛人を持つようになり、最初の十年間は子ができなかった。1536年に王太子だった兄フランソワが病死して夫が王位継承者になると、離縁を勧める声も上がり、追い詰められた彼女は妊娠のためあらゆる手段を試したという。1544年1月20日についに男子が生まれ、その後は9人を産み、そのうち7人が成長した。
夫アンリは18歳年上のディアーヌ・ド・ポワチエを愛妾とし、その寵愛を独占させた。1547年に即位してアンリ2世となったが、王妃となったカトリーヌに政治的な影響力を持つことを許さなかった。1559年、馬上槍試合の事故でアンリ2世が死去すると、彼女は折れた槍の紋章を用い、亡き夫を悼んで黒い喪服を常に着るようになった。長男フランソワ2世の短い治世ののち、幼いシャルル9世が即位すると、摂政として政治を担った。
国内ではユグノーとカトリックの対立が激しく、融和を図ったものの、宗教戦争の勃発は止められなかった。1572年にはパリや各地でプロテスタントの大量虐殺(サン・バルテルミの虐殺)が起こり、彼女は悪名を残すことになった。2年後にシャルル9世が没して四男アンリ3世が即位すると、内乱はギーズ公アンリとナバラ王アンリらによる泥沼の争いとなる。1588年に息子がギーズ公に強硬手段をとると、病床のカトリーヌは息子の愚行を嘆き、ほどなく亡くなった。その8か月後にアンリ3世は修道士に暗殺され、ヴァロワ朝は断絶した。芸術を愛好し、宮殿の造営や歌謡、演劇でも才能を発揮した。
同じ年に亡くなった人物
- 西郷局 (1589年没)
- Charles II of Monaco (1589年)
- パウロ・ディアス・デ・ノヴァイス (1589年没)
- トーダル・マル (1589年没)
- タンセン (1589年)
同じ地域に関係する人物
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- ジャン8世 (ヴァンドーム伯) (1477年没)
- アンヌ・ド・ブルターニュ (1514年没)