伝記
アンリ3世は、1551年9月19日にフォンテーヌブロー宮殿で生まれ、1589年8月2日に没した、ヴァロワ朝最後のフランス国王である。在位は1574年から1589年で、その前にはポーランド最初の選挙国王(在位1573年から1575年)でもあった。父はアンリ2世、母はカトリーヌ・ド・メディシスで、フランソワ2世とシャルル9世の弟にあたる。洗礼名はアレクサンドル=エドゥアールで、1559年にアンリと改名した。1560年にアングレーム公とオルレアン公、1566年にアンジュー公となっている。母からは最も愛され、「愛らしい目」と呼ばれて溺愛された一方、病弱な次兄シャルルは、健康で活発な弟に嫉妬してこれを忌み嫌うようになった。
青少年期には、王家の子の中で最も出来の良い息子と見られていた。父や兄たちと違い、ヴァロワ家伝統の狩猟や運動にはあまり関心を示さず、フェンシングは好んだが、芸術や読書をより好んだ。これはイタリア人の母の影響によるとされる。9歳のころには親への反抗からプロテスタント的な傾向を見せ、自らを「小さなユグノー」と呼んでミサを拒み、妹に時祷書を焼き捨てるよう勧めたこともあるが、成長すると二度とそうした行動は見せず、名ばかりのカトリック教徒になったという。宗教戦争では国王軍の司令官を務め、1569年のジャルナックとモンコントゥールの戦いで勝利した。
1572年7月にポーランド王ジグムント2世が嗣子なく没してヤギェウォ朝が断絶すると、アンリは国王候補の一人となった。同年8月のサン・バルテルミの虐殺は、寛容な宗派体制を望むポーランド貴族の反発を招いたが、フランス使節の働きかけとジグムント2世の妹アンナの支持もあり、1573年5月9日にセイムはアンリをポーランド王に選んだ。アンリは王権を制限する条項と統治契約に署名し、この条項は以後の選挙王が即位に際して認める決まりとなって、「ヘンリク条項」と呼ばれた。しかし貴族の力が強く王権の弱いポーランドの政治文化になじめず、1574年2月の戴冠のセイムでは宗教寛容を認める契約を無視しようとして反感を買った。連れてきたフランス人の側近ばかりと付き合ったことも問題視された。
1574年5月30日に兄シャルル9世が没し、その訃報が6月14日にクラクフへ届くと、アンリは6月18日深夜、少数の側近だけを連れて王宮を出奔した。貴族たちは驚いたが、期待外れの振る舞いにかえってせいせいした者も少なくなかった。帰国期限の1575年5月12日までに戻らず、王位は失効したが、アンリは死ぬまでポーランド王の称号を名乗った。
帰国してフランス王位を継いだアンリは、母カトリーヌとともに難局の国政を指導した。1576年にはボーリュー勅令でプロテスタントの礼拝を認めたが、過激なカトリック貴族がカトリック同盟を結成し、勅令は廃止に追い込まれた。1584年に王弟アンジュー公が亡くなると、ナバラ王アンリが筆頭王位継承者となり、反プロテスタント感情が高まった。ギーズ公アンリ率いる同盟が1585年3月に主要都市を占拠すると、アンリ3世は同盟の盟主となり、ナバラ王の継承資格を奪う七月勅令を出した。1588年5月にパリ市民が蜂起して国王はシャルトルへ逃れ、ギーズ公とその弟の枢機卿への報復に出たのち、ナバラ王の陣営と協力関係に入った。パリ市民と同盟は国王と認めないと宣言し、王国は二つに割れた。1589年8月1日、ドミニコ会修道士ジャック・クレマンの謁見に応じたところ短剣で襲われて重傷を負い、翌日の深夜2時に死去した。あとをナバラ王がアンリ4世として継いだ。
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