伝記
パオロ・ヴェロネーゼは、1528年、当時のヴェローナの国勢調査記録から、石工ガブリエーレとその妻カテリナの息子として生まれたことがわかっている。パオロ・カリアーリとも呼ばれるが、出身地のヴェローナにちなんで「ヴェロネーゼ」として知られるようになった。14歳のころまでに、ヴェローナの画家アントニオ・バディーレのもとへ弟子入りした。早熟な才能はバディーレの工房の水準を超え、1544年の時点で学ぶものはなくなったという。パルマで主流だったマニエリスム様式の絵画教育を受けたが、たちまち輝くような色彩に満ちた独自の作風を身につけた。
1548年にマントヴァに短期間滞在して当地のドゥオーモでフレスコ画を描き、1553年にヴェネツィアへ移住した。ヴェネツィアで受けた最初の依頼は、サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会の『聖会話』で、1553年には政府から庁舎の十人委員会の間のフレスコ装飾を公式に依頼された。その後サン・セバスティアーノ教会の天井画『エステルの生涯』を描き、この教会の天井画とドゥカーレ宮殿、マルキアナ図書館の天井画によって、ヴェネツィア絵画界の巨匠という名声を確立した。1550年代の終わりには、建築家パッラーディオが設計したバルバロ邸の室内装飾も手がけ、依頼主一家を登場人物に描いた鮮やかなフレスコ画群は、視覚化された詩とも言われる。1565年ごろには最初の師バディーレの娘エレーナと結婚し、四人の子が生まれた。
代表作『カナの婚礼』は、1562年にサン・ジョルジョ・マッジョーレ修道院のベネディクト会修道僧から依頼を受けて描かれた。契約では66平方メートルの壁を覆う巨大な絵とし、高価なウルトラマリンなど最上級の顔料を使い、可能な限り多くの人物を描くことが定められていた。15か月をかけて1563年に完成し、235年間修道院の食堂を飾ったが、1797年にナポレオン率いるフランス軍に略奪され、大きすぎるため2枚に裁断されてパリへ運ばれ、のちに修復された。ナポレオン失脚後の講和で返還された略奪美術品もあったが、この作品はフランスが返還を拒み、代償としてシャルル・ルブランの絵画がヴェネツィアへ送られた。画面にはフランソワ1世やスレイマン1世ら当時の貴顕が描かれているとされ、前面で楽器を奏でる人物にはヴェロネーゼ自身、ティツィアーノ、ティントレットが描かれているといわれる。
1573年には、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会の食堂のために、ティツィアーノの絵が火災で焼失したため、縦5m超、横12m超の大作を描いた。もともと『最後の晩餐』として描き始められたが、ヴェネツィアの貴族の祝宴のように描き、道化や酔ったドイツ人、小人といった聖書と無関係なモチーフを入れたことが問題視され、1573年7月に異端審問会へ召喚された。審問は懲罰よりも警告が主で、3か月以内の描き直しを命じられたが、ヴェロネーゼは「我々画家は、詩人あるいは狂人と同じく、心に思ったことを自由に表現する権利を持っている」と述べ、描き直す代わりに題名を『レヴィ家の饗宴』に改めるだけでこれを切り抜けた。ヴェネツィア派を代表する画家として、ティツィアーノ、ティントレットと並び評価される。1588年4月19日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ジョルジオ・ブランドラタ (1588年)
- Islam II Giray (1588年)
- ミマール・スィナン (1588年没)
- ヴァレンティン・ヴァイゲル (1588年没)
- アンリ1世 (ギーズ公) (1588年没)
同じ地域に関係する人物
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- オイゲン・フォン・ブラース (1931年没)
- ジョヴァンニ・バッティスタ・ピアッツェッタ (1754年没)
- ベルトゥッチョ・ヴァリエル (1658年没)
- サントーリオ・サントーリオ (1636年没)