HISTORICAL PERSON · 1995年没

モラルジー・デーサーイー

インドの政治家。ボンベイ州首相や副首相を歴任し、第4代の首相を務めた。ガンディーの不服従運動に加わり長く投獄された。

生涯
1995年没
死亡地
インド(マハーラーシュトラ州 / ムンバイ)
出生地
インド(Valsad district)
出典
世界地図
インド(マハーラーシュトラ州)

伝記

モラルジー・デーサーイーは、1896年2月29日に生まれ、1995年4月10日に没したインドの政治家であり、独立運動家でもあった。ローク・サバー議員、ボンベイ州首相、インド首相(第4代)などを歴任し、1977年から1979年まで首相の座にあった。

ボンベイ管区(現在のグジャラート州)のバルサード県バーデリ村に、裕福なグジャラートのアナヴィル・バラモンの家の8人兄弟の長男として生まれた。父ランチョードジー・ナーガルジー・デーサーイーは学校教師で、母はヴァジアベーンといった。初等教育をサヴァルクンドラで受け、のちにバルサードの高校に進んだ。ムンバイのウィルソン大学を卒業したのちは地方公務員として働き、ゴードラーの副徴税官にまで就いたが、1930年5月にこの職を辞している。1927年から28年にかけて同地で起きた騒乱の際に、ヒンドゥー教徒に対して手心を加えたとされて、責任を問われたためである。その後はマハトマ・ガンディーのもとで独立運動に加わり、イギリス支配への不服従運動に参加した。独立運動のなかで長年にわたり投獄されたが、鋭い指導力と不屈の気性によって運動家たちの人気を集め、インド国民会議派のグジャラート地方における重要な指導者となった。1934年と1937年に州議会選挙が行われると当選し、ボンベイ管区の歳入大臣、続いて内務大臣を務めた。

インドの独立後は議会での政治活動を活発に行い、1952年にボンベイ州の首相に選ばれて、1956年まで務めた。当時は言語を基準にした州をつくる運動が高まっていた時期で、ボンベイ州はグジャラート語とマラーティー語の話者が暮らす二言語の州だった。デーサーイーはこうした運動に反対し、大都市ムンバイを連邦直轄地にする案を示した。運動は州内の各地で暴力を伴うようになり、デーサーイーは、フローラ噴水に集まったサムユクタ・マハーラーシュトラ委員会のデモ隊に警官が発砲することを命じた。この事件で105人のデモ参加者が死亡したとされ、問題は拡大して、中央政府が言語別の二つの州の成立を受け入れる一因になったと考えられている。のちにデーサーイーはデリーへ移り、ネルー内閣の財務大臣となった。社会的には保守的で、自由な企業活動を支持する立場で、社会主義的なネルーの政策とは相容れなかった。連邦政府では内務大臣や財務大臣、副首相も歴任した。1966年にシャーストリー首相が没した際には有力な後継候補だったが、インディラ・ガンディーに敗れた。1969年に国民会議派が分裂すると、国民会議派(組織派)に加わった。

1975年、国民会議派の選挙違反が裁判所に認められてインディラ・ガンディー首相が有罪判決を受けると、首相は対抗手段として非常事態を宣言した。反対勢力の多数が逮捕され、デーサーイーも投獄された。この強権的な政治が反発を招き、非常事態の解除後に行われた1977年の連邦下院選挙では、野党がジャナタ党のもとに結集して勝利し、国民会議派は大きく議席を減らした。デーサーイーは首相に就任し、インド初の非国民会議派政権を率いることとなった。81歳での就任は、インドの歴代首相のなかで最も高齢だったとされる。ジャナタ党は反インディラの一点で結集していたため政権内の意見の対立が大きく、就任から2年がたった1979年に政権は崩壊した。その後はすべての政治職を退いたが、1980年にもジャナタ党のために選挙運動を行った。インドの最高の民間人栄誉であるバーラト・ラトナを授けられ、1990年にはパキスタンの最高の民間人栄誉も贈られた。1995年に99歳で亡くなった。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物