伝記
ファン・マヌエル・ファンジオは、1911年6月24日、ブエノスアイレスから350キロ離れたバルカルセで、イタリア系移民の二世として生まれたアルゼンチンのレーシングドライバーである。父はペンキ職人で、6人きょうだいの四男が、6月24日の「聖ヨハネの日」に生まれたため、「ファン」と名づけたという。幼いころから機械いじりが好きで、13歳で地元の修理工場の整備工として働きはじめた。サッカーも得意で、そのプレースタイルから、「がに股」を意味するスペイン語の「エル・チュエコ」とあだ名された。兵役を終えると独立し、自分の修理工場で車を改造して、1934年からレースに出場した。
南米の長距離ロードレースで活躍し、1940年には、ブエノスアイレスとペルーのリマを往復する約9500キロのレースで優勝した。1940年と1941年には、アルゼンチンの国内選手権を制した。当時のライバルは、ガルベス兄弟で、ファンジオ派とガルベス派のファンが対立するほどの人気だった。1942年以降は、戦争の余波でレースが中止された。1948年10月、ブエノスアイレスからカラカスを目指すレースで、ペルーの区間のコーナーに、濃霧の中、速度を出しすぎて進入し、転落した。同乗していた2歳年下の友人が車外に投げ出されて死亡し、大きなショックを受けて、一時は引退も考えた。立ち直ったのち、ペロン政権の後援を受けて、ヨーロッパへ渡り、1949年は、サンレモやポーなどのレースで連勝を重ねて、国際的な一流ドライバーと見なされるようになった。
アルファロメオと契約して、新たに始まったF1世界選手権に参戦し、モナコで初優勝した。1951年にフェラーリとの争いを制して、初の世界チャンピオンになった。翌年は、アイルランドのレースの翌日に、モンツァのレースに出るため、パリからミラノまで夜通し運転して出場し、クラッシュして頸部を骨折し、半年間療養した。1953年にマセラティから復帰し、最終戦のイタリアで、2年間無敗だったフェラーリを止める勝利を挙げた。1954年にはマセラティで開幕2連勝したのち、メルセデスに移り、シーズン9戦中6勝を記録して、2度目のチャンピオンになった。1955年も7戦中4勝で、3度目のタイトルを獲得し、イギリスでは、スターリング・モスの地元初優勝を祝う余裕も見せた。同年のル・マン24時間レースでは、観客80人以上が死亡する史上最悪のクラッシュに遭遇したが、先を行く車の事故を察して、間一髪で難を逃れた。
1956年は、フェラーリに移り、最終戦で、チームメイトのピーター・コリンズから車を譲られる形で、4度目のチャンピオンとなった。1957年にはマセラティに復帰し、4年連続の王者となった。この年のドイツのレースは、伝説的な逆転勝利で、ベストレースと評される。給油とタイヤ交換の作戦で首位から3位に落ちたが、猛烈なペースアップで、残り2周で2台を抜き去った。1958年、フランスのレースを4位で終えた後、47歳でF1からの引退を表明した。F1通算24勝は、のちにジム・クラークが更新するまで最多で、51戦中24勝という勝率は、圧倒的である。通算5度の世界チャンピオンは、2003年にミハエル・シューマッハに破られるまで、46年間、史上最多の記録だった。紳士的な人柄で尊敬を集めた。引退後は、母国でメルセデス・ベンツのディーラーを経営した。1995年7月17日、ブエノスアイレスで84歳で死去し、国葬で葬られた。
同じ年に亡くなった人物
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- シューラ・チェルカスキー (1995年没)
- エドワード・バーネイズ (1995年没)
- ローズ・ケネディ (1995年没)
- ヴェルナー・リーブリッヒ (1995年没)
同じ地域に関係する人物
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- Nini Marshall (1996年没)
- エルネスト・グリージョ (1998年没)
- エルミニオ・マサントニオ (1956年没)
- Adolfo Zumelzu (1973年没)