HISTORICAL PERSON · 1995年没

ミヒャエル・エンデ

ドイツの児童文学作家で、画家エドガー・エンデの子。『はてしない物語』の作者で、日本と関わりが深く、1989年に同書の翻訳者の佐藤真理子と結婚した。

生涯
1995年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バーデン=ヴュルテンベルク州 / Filderklinik)
出生地
ドイツ連邦共和国(ガルミッシュ=パルテンキルヒェン)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バーデン=ヴュルテンベルク州)

伝記

ミヒャエル・アンドレアス・ヘルムート・エンデは、1929年11月12日にバイエルン州のガルミッシュ=パルテンキルヒェンで生まれたドイツの児童文学作家である。父はシュールレアリスムの画家エドガー・エンデで、母は理学療法士のルイーゼであり、ミヒャエルは一人っ子だった。1935年、六歳のときに一家はミュンヘンの芸術家街シュヴァービングに移り、芸術と文学に満ちた環境で育った。やがてナチスが台頭し、1936年に父の作品が「退廃芸術」とされて禁じられたため、父は隠れて絵を描かねばならず、生活は苦しくなった。1941年にはギムナジウムを落第している。

第二次世界大戦はエンデの少年期に大きな影響を与えた。12歳のとき、連合軍による最初のミュンヘン空襲を目撃し、1943年のハンブルク空襲は訪れていた叔父のもとで体験して恐怖を覚えた。学校が閉鎖されると疎開してガルミッシュ=パルテンキルヒェンに戻り、そこでドイツ詩への関心が目覚めた。ナチス政権下では近年のドイツ詩の多くが禁じられていたため、ロマン派の詩人ノヴァーリスを読み、『夜の讃歌』に深い印象を受けたという。1945年、14歳ほどの少年たちが軍に徴兵され、同級生3人が戦闘の初日に戦死した。エンデにも召集令状が届いたが、彼はこれを破り捨てて、夜だけ森の中を歩き、ミュンヘンの母のもとへ逃げ帰った。その後は、近所に住むイエズス会の神父の依頼で反ナチスのレジスタンス組織を手伝い、伝令として自転車でミュンヘンを駆け回った。

戦後はシュトゥットガルトのシュタイナー学校で学び、この頃から物語を書き始めた。劇作家を志し、1948年に演劇学校に入学して、1950年に卒業した。1シーズンだけ舞台に立ったが、役者としての仕事には失望したという。1953年には父がエンデとほぼ同年齢の愛人と同棲し、絶望した母を精神的、経済的に支えた。1961年、『ジム・ボタンの機関車大旅行』がドイツ児童文学賞を受けて生活が安定した。1964年に8歳年上のインゲボルク・ホフマンと結婚してイタリアに移住し、1973年に『モモ』を完成させ、翌1974年に再びドイツ児童文学賞を受けた。1977年に初来日して能・歌舞伎を鑑賞し、禅僧とも対談している。1979年には『はてしない物語』を完成させた。

1985年に妻インゲボルクが63歳で亡くなると、周囲にドイツ語を話す人がいなくなったことが理由で、ミュンヘンに戻った。1989年には「エンデ父子展」のために再来日し、同年9月4日、『はてしない物語』の翻訳者である佐藤真理子と結婚した。日本とは関わりが深く、黒姫童話館にはエンデに関わる多くの資料が収集されている。1991年にはNHKスペシャル「アインシュタインロマン」にプレゼンターとして出演した。1995年8月28日、胃癌のためフィルダーシュタットで亡くなり、葬儀はミュンヘンのキリスト者共同体で執り行われた。ほかの作品に『ジム・ボタンと13人の海賊』『鏡のなかの鏡』『魔法のカクテル』などがあり、没後の1998年には遺稿集『だれでもない庭』が刊行された。日本では岩波書店から『エンデ全集』全19巻が刊行されている。

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