HISTORICAL PERSON · 1586年没

フィリップ・シドニー

エリザベス朝の詩人・廷臣・軍人。『アストロフェルとステラ』『詩の弁護』『アーケイディア』の著者として知られ、エリザベス1世とアランソン公の結婚に反対する意見書を女王に出した。

生涯
1586年没
死亡地
オランダ(ヘルダーラント州 / アーネム)
出生地
イギリス連邦(ペンスハースト)
出典
世界地図
オランダ(ヘルダーラント州)

伝記

フィリップ・シドニーは、1554年11月30日、ケントに長男として生まれた。母レディ・メアリー・ダドリーは初代ノーサンバーランド公ジョン・ダドリーの娘で、初代レスター伯ロバート・ダドリーの姉にあたる。妹のメアリーは第2代ペンブルック伯と結婚し、兄をはじめ詩人たちのパトロンとして重要な人物となった。シュルーズベリー・スクールとオックスフォード大学クライスト・チャーチで教育を受け、よく旅し、よく学んだ。大学を出た後の数年間はヨーロッパ本土にとどまり、ドイツ、イタリア、ポーランド、オーストリアを歴訪して、多くの著名な知識人や政治家と知り合った。1575年に帰国すると、のちのデヴォンシャー伯爵夫人ペネロピ・デヴァルーと再会した。父の初代エセックス伯は娘をシドニーに嫁がせるつもりだったと言われるが、伯は1576年に亡くなった。

宮廷では、エリザベス1世とアランソン公との結婚について、プロテスタントの立場から反対の意見書を女王に建白し、不興を買った。さらに、第17代オックスフォード伯とテニスコートの先着順をめぐって諍いを起こし、決闘を挑んだが、女王に身分をわきまえるよう諭されて禁じられた。フランスとの縁組みの愚かさを綴った長文の手紙も女王に送ったため、宮廷への出入りを差し止められ、妹の嫁ぎ先であるウィルトン屋敷に身を寄せて文筆に励んだ。この蟄居の期間に、処女作「五月祭の佳人」、散文ロマンス『オールド・アーケイディア』、英語で書かれた最初の詩論『詩の弁護』、ソネット詩集『アストロフェルとステラ』を書いたとされ、後世に詩人としての名を残すことになった。エドマンド・スペンサーは処女作『羊飼いの暦』をシドニーに献呈している。

1581年の中頃には宮廷に戻り、1583年にフランシス・ウォルシンガムの娘と結婚し、同年ナイト爵を授けられた。翌1584年には、異端とされたジョルダーノ・ブルーノと知り合い、ブルーノは後に2冊の本を献呈した。1585年には娘エリザベスが生まれている。激しく好戦的なプロテスタントで、1572年のサン・バルテルミの虐殺の際にはパリのウォルシンガムの家にいたという。1585年にオランダのフリシンゲン提督に就任し、翌1586年7月にはアクセル近郊でスペイン軍への急襲を指揮して成功した。

同年のジュトフェンの戦いでは、鎧を付けていない敵の大将に対抗して自らも鎧を脱いでいたため、腿を撃たれ、破傷風のため26日後の1586年10月17日に亡くなった。伝えられるところでは、負傷して倒れている間、やはり負傷した兵に「私以上に君に必要なものだろう」と言って水筒を譲ったといい、この話は高貴な人柄を示す最も有名な逸話である。遺体はロンドンに戻され、1587年2月16日、セント・ポール大聖堂に国葬扱いで埋葬された。スペンサーはエレジー『アストロフェル』でシドニーをイングランド男子の花と讃え、学友の初代ブルック男爵フルク・グレヴィルが伝記を著している。

『アストロフェルとステラ』は写本で回覧され、没後の1591年に初版が出た。『アーケイディア』はシェイクスピアが『リア王』のグロスター伯の筋に借用したとされ、1世紀以上にわたり人気を保った。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物