伝記
グレゴリウス13世は、第226代ローマ教皇(在位1572年〜1585年)で、本名はウーゴ・ブオンコンパーニという。学問を好み奨励したことで知られ、治世にグレゴリオ暦を採用したことでも有名である。1502年に、ボローニャで裕福な商人の子として生まれた。生まれた月日は6月7日とも1月7日ともいわれる。ボローニャ大学で法学を修め、1530年に学位を得て、のちに同大学で教壇に立った。教え子にはカルロ・ボッロメーオ、アレッサンドロ・ファルネーゼ、レジナルド・ポールがいた。
1539年にローマへ招かれ、パウルス3世のもとで教会法関係の業務についた。1546年にはトリエント公会議に審判官として派遣され、ユリウス3世のもとでも教皇庁の役職を務めた。1558年にパウルス4世からヴィエステの司教に任じられ、1561年にはピウス4世に再びトリエントへ送られて、1563年の閉会まで教皇特使の補佐役を務めた。1565年に枢機卿となり、スペインでトレド大司教カランサの異端審問に関わる使節を務めたが、この滞在でフェリペ2世の好意を得たことが、のちの教皇選出に決定的な役割を果たしたという。ボローニャ時代には、未婚の女性との間に庶子ジャコモをもうけている。
1572年、ピウス5世の死去を受けたコンクラーヴェで、フェリペ2世の影響力のもと、70歳にして1日で新教皇に選ばれ、大教皇グレゴリウス1世にならって名を定めた。まず全精力を教会改革に傾け、トリエント公会議の決議を徹底させ、司教や枢機卿に担当地域に住むことを求めた。禁書目録を作る委員会も任命した。聖職者養成のために多くの神学校を設立し、その運営の柱としてイエズス会を強力に後押しした。イエズス会のローマ学院を大きく援助して拡張させたことは、現在も続く「グレゴリアン大学」という名に記念されている。1579年にはイングランド学院を設け、1577年には改宗者のための学院も創設している。週に一度は誰でも謁見できる日を設け、聖職に就ける人物を選ぶため、ローマの内外の適任者の長所と短所を書き留めた名簿を持っていたという。
最も有名な事績は、グレゴリオ暦の採用である。ユリウス暦のずれは、すでにロジャー・ベーコンが指摘しており、トリエント公会議で新暦の研究が教皇庁の業務と決められていた。教皇はシルレト枢機卿を長とする委員会を設け、当代随一の天文学者であるイエズス会士クリストファー・クラヴィウスも加わった。1582年2月に勅令が出され、10月にまずイタリア、スペイン、ポルトガル、ポーランドなどで切り替えられて、ユリウス暦の10月5日が10月15日とされた。プロテスタント諸国は受け入れず、正教会も反発して東西教会の亀裂を深めたが、やがて暦は世界に広まった。
外交では、イスラム教国への対抗姿勢を示しつつ、イングランド女王エリザベス1世の転覆を支援して、イギリスのカトリックへの反発を招いた。1572年のサン・バルテルミの虐殺の報にはテ・デウムを歌わせ、記念メダルを作らせたが、これはフランス側の宣伝を信じたためという見方もある。1580年にはクイリナーレ宮殿を造営させたが、その費用を教皇領内の資産の没収などでまかなったため、貴族の反感を招いた。1585年3月には天正遣欧使節の少年たちが謁見し、ローマで大歓迎を受けた。この際、織田信長が安土城と城下を描かせた屏風が、教皇に贈られたと伝えられる。教皇はその直後の4月10日に世を去った。
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