伝記
マルクス・アウレリウス・カリヌスは、ローマ帝国の皇帝で、皇帝カルスの長男である。250年ごろに生まれ、285年7月に没した。283年から285年にかけて在位し、父の死後は弟ヌメリアヌスとともに帝位に就いた。
幼少期については記録がない。282年、ラエティアとノリクムの軍団が、近衛隊長だった父カルスを皇帝に推戴し、皇帝プロブスへの反乱が起こると、プロブスはシルミウムに駐留していた自軍に殺された。父が皇帝となった時、カリヌスはすでに成人しており、マグニア・ウルビカという女性と結婚していて、息子ニグリニアヌスがいた可能性が指摘される。即位して間もなく、父は彼と弟にカエサルの称号と、青年の第一人者の称号を与えた。父がヌメリアヌスと東方へ向かってペルシアとの戦いを準備する間、彼は西方の属州の統治を委ねられ、ローマで側近とともに政務を執った。そのため、父たちがクアディ族やサルマタイ人を破って得たゲルマニクス・マクシムスの称号を、戦いに加わらないまま受けた。『ヒストリア・アウグスタ』は、父が彼を西方の君主としたことを気に病み、長男からカエサルの称号を奪おうとしたと伝えるが、他方で帝国の栄誉を授けられ、彼の名の貨幣には月桂冠をつけた姿が刻まれた。
283年には父とともに執政官となり、その後アウグストゥスに昇格した。ペルシアに勝った後、父と息子たちはペルシクス・マクシムスの称号を受け、ガリア・ルグドゥネンシス属州では、父子が並ぶ貨幣が平和の回復を祝って鋳造された。父との共同統治は、ガッリエヌスとウァレリアヌスのように王朝の支えとなり、皇帝が同時に二か所にいる状態を保証した。行政と軍事の才に恵まれ、弟ヌメリアヌスと違って、父の後継者に選ばれた本命だったらしい。
283年に父がペルシアで没すると、兄弟は障害なく後継者となった。カリヌスは兵の秩序と忠誠を保てたため、年長のアウグストゥスの地位を保った。父の始めたドナウ川の戦争を続け、クアディ族に対する戦いも行った。283年から284年の冬はローマで過ごし、弟と二度目の執政官を務めた。その後ブリタンニアへ赴き、遠征を行ったが、これはラテン詩人ネメシアヌスの詩に詠まれた。この遠征のあと、兄弟はブリタンニクス・マクシムスの称号を受けた。
284年11月に弟ヌメリアヌスの謎めいた死がイタリアに伝わって間もなく、近衛隊長サビヌス・ユリアヌスがイタリアで反乱を起こした。ブリタンニアにいたカリヌスは出向き、285年の初めにウェローナの近くで反乱者を破った。ヴェネティア・イストリア属州の総督マルクス・アウレリウス・ユリアヌスが、ドナウ川沿いの属州で反乱を起こしたとの報告もあるが、これもイリュリアで鎮圧した。二人の反乱者は、多くの書物で混同され、同一人物と見なされることも多い。この間に東方の軍は、彼を唯一の皇帝と認めず、将軍ディオクレスを皇帝に推戴した。のちにディオクレティアヌスを名乗る人物である。285年7月、カリヌスは、ドナウ川支流のグラン・モラヴァ川流域で、マルグスの戦いにより敗れて殺されたと伝わる。日本語版の資料は、内戦になる前に、人望のなかった彼がクーデターで暗殺されたとしており、最期については記述が食い違う。後世、ディオクレティアヌス側の宣伝により、彼の人柄や経歴についての悪評が広められた。
同じ年に亡くなった人物
- サビヌス・ユリアヌス (285年没)
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