HISTORICAL PERSON · 1994年没

ライナス・ポーリング

アメリカの量子化学者・生化学者。化学結合の本性を解明した業績で1954年にノーベル化学賞を受賞し、タンパク質構造決定など分子生物学の草分けでもあった。

生涯
1994年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / ビッグサー)
出生地
アメリカ合衆国(ポートランド)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

ライナス・ポーリングは、1901年2月28日にアメリカ合衆国オレゴン州ポートランドで生まれた量子化学者、生化学者である。父ハーマンは薬剤師だったが仕事がうまくいかず、一家は1903年から1909年までオレゴン州内の都市を転々とし、最終的にポートランドに戻った。父は1910年に穿孔性潰瘍で亡くなり、母と二人の妹とともに残された。幼い頃から熱心な読書家で、小学校のころには父の友人ロイド・ジェフレスと昆虫や鉱物の採集に出かけて科学に関心を持った。ワシントン高校ではロイドの小さな化学実験室で見せられた実験に驚きと楽しみを覚え、化学工学の道に進む夢を抱いたという。ただ、必修のアメリカ史の単位を取れなかったため卒業証書を受けられず、高校がそれを授与したのは45年後の1962年、二つのノーベル賞を受けた後のことであった。

1917年にコーバリスのオレゴン農業大学(現在のオレゴン州立大学)に入学したが、経済的な事情から講義に出る傍ら長時間働かざるを得なかった。入学2年後に母を養うためポートランドで職を探そうとしていたところ、大学側が定量分析を教える職を提供したため、学業を続けることができた。最後の2年間にギルバート・ルイスとアーヴィング・ラングミュアの原子の電子構造と原子間結合の研究を知り、物質の性質とその原子構造の関係を探ることに専念しようと決めた。1922年に化学工学の学士号を得て卒業し、カリフォルニア工科大学に進んでロスコー・ディッキンソンに師事した。X線回折による結晶構造の決定を研究し、1925年に最優等で物理化学と数理物理学の博士号を授与された。大学で家政学科向けの化学を教えていたときに出会ったエヴァ・ヘレン・ミラーとは1923年6月17日に結婚し、3人の息子と1人の娘が生まれた。

博士号の後はグッゲンハイム奨学金でヨーロッパへ渡り、ミュンヘンでアルノルト・ゾンマーフェルト、コペンハーゲンでニールス・ボーア、チューリッヒでエルヴィン・シュレーディンガーに学んだ。ハイトラーとロンドンによる水素分子の結合の量子力学的解析に触れ、2年間の滞在をこの仕事に費やして、量子論を分子構造に応用する研究を将来の中心に据えた。1927年にカリフォルニア工科大学の助教、1929年に准教授、1930年に教授となり、最初の5年間でおよそ50の論文を発表して、ポーリングの法則として知られる5つの法則を見いだした。1931年には自身が最高の仕事と呼んだ化学結合に関する論文の発表を始め、1932年には炭素原子が四価である理由を説明する原子軌道の混成の概念を示し、同じ年に電気陰性度の概念も確立した。ベンゼンについては、二つの構造が高速で入れ替わっているのではなく、両者の重ね合わせの中間的な構造だと量子力学から説明し、これは共鳴として知られる。1939年にはこれらをまとめた『化学結合の本性』を出版し、化学界に大きな影響を与えた。

こうした業績により、1954年に「化学結合の本性、ならびに複雑な分子の構造研究」でノーベル化学賞を受賞した。また地上核実験に反対する運動の功績で、1962年にはノーベル平和賞も受けている。単独でノーベル賞を2度受けた唯一の人物とされる。後年には大量のビタミンCなどを摂取する健康法を唱え、分子矯正医学を提唱して著書で広めたが、これは「ビタミンCで風邪が治る」という俗説が広まるきっかけにもなった。1965年に原子核の最密充填スフェロン模型を発表して、亡くなる1994年までほぼ30年にわたり関連の論文を出し続けた。1994年8月19日に世を去った。

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