伝記
ジュリアン・セイモア・シュウィンガーは、アメリカ合衆国の理論物理学者である。1918年2月12日にニューヨーク市で生まれた。両親はポーランドから移住したアシュケナジム系のユダヤ人で、父ベンジャミンは衣料の製造業者、母はベル(旧姓ローゼンフェルド)という。父と母方の祖父母はいずれも成功した衣料製造業者だったが、1929年の株価暴落の後、家業は傾いた。一家は正統派のユダヤ教の伝統に従って暮らしていた。7歳上の兄ハロルドがいた。
早熟な生徒で、1932年から1934年まで、優秀な生徒の集まる名門のタウンゼンド・ハリス高校に通った。高校のころから、ニューヨーク市立大学シティカレッジの図書館で、ポール・ディラックらの論文を『フィジカル・レビュー』誌で読み始め、17歳で最初の論文を発表した。1934年秋にシティカレッジに入学したが、授業をよく休んで本から直接学ぶ暮らしぶりで、物理と数学は抜群にできた一方、英語など興味のない科目では教師と衝突した。兄の頼みを受けた物理講師のロイド・モッツがその才能に気づき、コロンビア大学のイジドール・イザーク・ラービに助けを求めた。ラービは初対面で才能を見抜き、奨学金の手配を進めた。成績の悪さが障害になったが、ラービがシュウィンガーの未発表の量子電磁力学の論文を、たまたまニューヨークにいたハンス・ベーテに見せ、その評価で奨学金が決まったという。コロンビア大学に移ってからは成績もよく、1936年に学士号を得た。
大学院時代には、ラービのすすめで1937年から翌年にかけて旅行奨学金を得て、グレゴリー・ブライトやユージン・ウィグナーのもとで研究した。このころから夜に働いて昼に眠る習慣を徹底させ、生涯続けたとされ、本人は、二人に支配されない知的な独立を保つためでもあったと語っている。1939年、21歳でラービの指導のもと博士号を得た。同年秋にカリフォルニア大学バークレー校でオッペンハイマーのもとに2年間いたあと、1941年にインディアナ州のパデュー大学で最初の正規の職についた。第二次世界大戦中は、マサチューセッツ工科大学の放射線研究所でレーダーの開発に加わった。戦後はハーバード大学に移り、1945年から1974年まで教えた。1947年6月8日にクラリス・キャロルと結婚し、子供はなかった。
ハーバード大学の在職中に、ラムシフトの説明に繰り込み理論を適用して成功した。1957年の論文「基本的相互作用の理論」では、新しい素粒子の存在を先駆的に予想した。強い電場の中で真空から粒子と反粒子の対が生じることを最初に示し、その電場の強さは「シュウィンガー極限」と呼ばれる。場の量子論の計算で使われるシュウィンガー・ダイソン方程式でも知られる。繰り込み理論によって量子電磁力学を完成させた功績で、1965年に朝永振一郎、リチャード・P・ファインマンとともにノーベル物理学賞を受けた。1951年には、クルト・ゲーデルとともに第1回のアルベルト・アインシュタイン賞を受けた。1972年から亡くなるまでカリフォルニア大学ロサンゼルス校の物理学教授を務め、研究に没頭した。指導者としても優れ、ロイ・グラウバー、ベン・モッテルソン、シェルドン・グラショウ、ウォルター・コーン(化学賞)の4人のノーベル賞受賞者を育てた。1994年7月16日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ダン・ハートマン (1994年没)
- チャールズ・ブコウスキー (1994年没)
- エルガ・アンデルセン (1994年没)
- レナード・フェザー (1994年没)
- ウルリケ・マイヤー (1994年没)
同じ地域に関係する人物
- メアリー・マクラレン (1985年没)
- エディ・アルバート (2005年没)
- ペギー・リプトン (2019年没)
- ピア・アンジェリ (1971年没)
- トーマス・モラン (1926年没)