HISTORICAL PERSON · 1994年没

金日成

朝鮮民主主義人民共和国の初代最高指導者。満洲で抗日パルチザン活動をした後、1948年から死去まで北朝鮮を率いた建国の父とされる。

生涯
1994年没
死亡地
朝鮮民主主義人民共和国(平壌市)
出生地
朝鮮民主主義人民共和国(万景台区域)
出典
世界地図
朝鮮民主主義人民共和国(平壌市)

伝記

金日成は、1912年4月15日、平壌西方の万景台に金亨稷の長男として生まれた。出生名は金成柱で、のちに金一星と名乗り、1932年ころから号として使い始めた「日成」を名とした。母の康盤石はキリスト教徒で、外祖父は長老会の牧師であった。父は抗日派かそのシンパであったためか、1919年の三・一独立運動の翌年に、幼い金日成を連れて南満洲へ移住した。満洲の小学校で学んだのち、1926年に民族派の独立運動団体が運営する軍事学校に入ったが、短期間で退学し、この前後に父が没している。吉林の中国人中学校ではマルクス・レーニン主義に触れ、共産主義者の教師から強い影響を受けて青年学生運動に加わり、退学を余儀なくされた。

金日成は、朝鮮革命軍のうち左派の一団に加わって武装活動を始め、のち中国共産党が指導する抗日パルチザン組織の東北人民革命軍に参加した。入党時期は1932年とも1933年とも記録が分かれる。1936年から再編された東北抗日聯軍では、朝鮮人隊員が親日派団体の団員というレッテルで粛清された民生団事件のなかで粛清を免れ、第一路軍第二軍第六師の師長となった。1937年6月、部隊が朝鮮咸鏡南道の普天堡の町を夜襲した事件で、名を知られるようになった。ただし日本側が懸賞金をかけた額は、金日成と崔賢が1万円、上官の魏拯民と呉成崙が3千円で、金日成だけが突出していたわけではない。北朝鮮の公式伝記は祖国光復会の結成を金日成の功績とするが、実際に中心となったのは呉成崙だったと指摘されている。

日本軍の討伐で東北抗日聯軍は消耗を重ね、1940年の秋、金日成は党上部の許可を得ず、十数名の部下とともにソ連の沿海州へ逃れた。一時スパイの疑いで拘束されたが、上司だった周保中の保証で釈放され、ソ連極東戦線傘下の第88特別旅団で第一大隊長となった。1945年8月にソ連軍が北緯38度線以北を占領すると、9月に元山港に上陸して帰国し、10月14日の平壌の歓迎大会で初めて民衆の前に姿を現した。ソ連軍政当局の後押しで、1946年2月に北朝鮮臨時人民委員会の委員長に就き、同年8月に創設された北朝鮮労働党では副委員長となった。ただし金日成派は国内の共産主義者のなかでは圧倒的な少数派で、この弱さは1970年代に至るまで彼を苦しめたという。

1948年8月に大韓民国が成立すると、9月9日に朝鮮民主主義人民共和国が建国され、金日成は首相に就任した。翌1949年6月には朝鮮労働党が結成され、その中央委員会委員長に選ばれた。1950年6月25日に北朝鮮軍が38度線を越えて朝鮮戦争が始まった。ソ連の資料から、金日成がソ連の同意を取り付けて中国とともに準備したものと明らかになったとされる。当初は優勢だったが、9月に仁川上陸作戦が行われると敗走し、10月には平壌を脱出して中国の通化に事実上亡命した。中国人民志願軍の派兵で戦局は押し戻され、戦線は38度線付近で膠着し、休戦交渉に入った。1953年2月には「朝鮮戦争における指揮・功績」を認められ、元帥の称号を得ている。

以後は死去するまで最高指導者の地位にあり、1948年から1972年まで首相、1972年から国家主席を務め、党では1966年以降は総書記であった。1994年7月8日に死去し、遺体はエンバーミングを施されて平壌の錦繍山太陽宮殿に安置されている。1998年の憲法改定で「永遠の主席」とされた。

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