伝記
カンティンフラスは、1911年8月12日に生まれ、1993年4月20日に亡くなったメキシコの俳優、コメディアンである。本名はマリオ・フォルティノ・アルフォンソ・モレノ・レイエスで、映画製作にも携わった。メキシコ映画を代表する喜劇俳優であり、中南米とスペインで広く親しまれた。
メキシコシティのサンタ・マリア・ラ・レドンダ地区に生まれ、のちにテピートで育った。父ペドロ・モレノ・エスキベルは貧しい郵便配達員で、母マリア・デ・ラ・ソレダ・レイエス・ギサルはミチョアカン州コティハの出身で、裕福な家の出だったが、結婚によって勘当されたという。兄弟姉妹は多く、12人とも8人ともいわれる。若いころは医学の道や職業ボクサーなどさまざまな進路を考えた末、ダンサーとして芸能界に入った。1930年には、メキシコシティの巡業テント興行で、いくつかの一座を渡り歩き、最後のバレンティナ一座で将来の妻と出会った。当初は米国の歌手アル・ジョルソンのまねをして顔を黒く塗る芸を試みたが、やがて離れ、だぶだぶのズボンに縄の帯、独特の口ひげという、貧しいスラム住民の役柄を自分の芸としてつくり上げた。テントの舞台では踊りや軽業をこなし、さまざまな職業の役も演じた。
カンティンフラスという呼び名は、この巡業時代に付いたあだ名である。芸能の仕事を恥ずべきものと考えていた両親に知られないよう作った、意味のない名前だとされ、本人も1992年の最後のテレビ取材でこれを認めたという。1936年10月27日にロシア系のバレンティナ・イバノバ・スバレフと結婚し、1966年1月に彼女が亡くなるまで連れ添った。1961年に別の女性との間に生まれた息子は、バレンティナが養子に迎えて育てた。
1930年代半ばに宣伝担当で製作者のサンティアゴ・レアチと出会って組み、レアチが製作・監督・配給を、カンティンフラスが演技を受け持った。1936年に映画デビューし、1930年代にコメディアンとして成功して、多くのメキシコ映画に出演した。彼の話しぶりはメキシコ特有の抑揚や語彙、文法を取り入れたもので、その芸名から派生した言葉がいくつも生まれた。第二次世界大戦後はアメリカ映画にも出演し、1956年の『八十日間世界一周』でパスパルトゥーを演じてゴールデングローブ賞の男優賞を受けた。1960年の『ペペ』では同賞の特別賞を受けている。チャールズ・チャップリンは、その芸風に敬意を表して世界で最も偉大なコメディアンと評したとされる。
1960年代以降は、スペイン語圏の映画に多く出演し、自ら製作会社カンティンフラス・フィルムも経営した。メキシコ俳優協会の会長や、独立系の映画労働組合の初代書記長も務めた。引退後は、慈善や、子どもを助ける活動に力を注ぎ、莫大な出演料や賞金の多くを恵まれない人々へ寄付したことでも知られる。1993年に癌で亡くなり、葬儀は国葬級の扱いを受けた。ハリウッドのウォーク・オブ・フェームにも名が刻まれている。日本には1961年3月に来日しており、1978年7月にはアカプルコで開かれたミス・ユニバース世界大会で、審査員の一人を務めた。
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