HISTORICAL PERSON · 1580年没

アンドレーア・パッラーディオ

パドヴァ生まれの建築家。ヴィチェンツァのバシリカ改修案の当選で名を高め、ヴィラ・ロトンダを設計した。『建築四書』を著し、その建築は18世紀の英国でパッラーディオ主義の運動を生んだ。

生涯
1580年没
死亡地
イタリア共和国(トレヴィーゾ県 / マゼール)
出生地
イタリア共和国(パドヴァ)
出典
世界地図
イタリア共和国(トレヴィーゾ県)

伝記

アンドレーア・パッラーディオは、1508年11月30日、パドヴァの粉屋ピエトロ・デッラ・ゴンドーラの子として生まれた。本名はアンドレーア・ディ・ピエトロ・デッラ・ゴンドーラである。石工になるためバルトロメオ・カヴァッファの工房に入ったが、やがてヴィチェンツァに移り、ジョヴァンニ・ディ・ジャコモとローラモ・ピットーニの工房で働いた。三十歳ごろ、人文主義者ジャン・ジョルジョ・トリッシノがその素養を見出し、古典主義思想とローマ時代の建築について手ほどきをし、数学や音楽、ラテン文学の薫陶も与えたとされる。建築家として本格的に活動するにあたり、「パッラーディオ」という名もトリッシノから与えられた。これはトリッシノ自作の叙事詩に登場する天使の名だといわれる。

彼に大きな影響を与えたのは、1541年と1545年にトリッシノとともに訪れたローマである。ウィトルウィウスの『建築十書』を片手に古代建築を見て回り、ブラマンテやラファエロなど当時の最先端も知った。1546年、帰国した彼は、ヴィチェンツァ市で懸案となっていたパラッツォ・デッラ・ラジョーネ(通称バシリカ)の改修案を提出し、既に名声を確立していたヤーコポ・サンソヴィーノやジュリオ・ロマーノらの案を退けて当選した。セルリアーナを連続させる構成を持つこの公共建築は市のシンボルとなり、彼の名は北イタリア一帯に広まって依頼が増えた。1554年には、ローマの古代建築を調査した『ローマ建築』を出版し、これは後の新古典主義者たちに多大な影響を与えた。

ヴィチェンツァでの最初の邸宅パラッツォ・ポルトは1549年頃に着工され、ラファエロとブラマンテの影響が明らかである。1550年に起工したパラッツォ・キエリカーティは、ヴェネツィアの伝統に沿いながらローマ時代の邸宅のイメージを独自の手法で重ねた。別荘建築はシンメトリカルな平面で、各部を調和比例で決めると自著で述べたが、実際にそうなっているものは少ない。1554年にはヴィッラ・バルバロ、1556年にはヴィッラ・バドエルが起工された。1566年着工のヴィラ・アルメリコ(ラ・ロトンダ)は、建物の四面が同じファサードをもつ形で、後にイギリスなどに多くの模倣を生んだ。ヴェネツィアでも、1564年にサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂を、1578年にペスト終結の祈願としてイル・レデントーレ聖堂の建設を手がけた。1580年初旬には、アカデミア・オリンピコの恒久的劇場としてテアトロ・オリンピコを設計したが、その年の夏、8月19日に死去した。

平面図を基本に空間を設計した最初の建築家と考えられ、最初の専業建築家ともされる。アーチと柱を組み合わせた開口部「セルリアーナ」の表現で知られ、これはローマ建築の研究の中で原型を発見した結果と考えられている。ジャイアント・オーダーの用い方や、普通の住宅にペディメントを取り付ける手法など、大胆な手法も駆使した。1570年刊行の『建築四書』は建築理論の集大成であり、後のパッラーディオ主義で標準テキストとして引用され続けた。死後は一時その名が埋もれたが、18世紀のイギリスでイニゴ・ジョーンズやバーリントン伯爵らが建築と著作を再発見し、パッラーディオ主義と呼ばれる運動を起こした。彼の建築の多くは今も保存修復され、ヴィチェンツァを中心に現存し、ヴェネト地方の別荘群は世界遺産に登録されている。

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