伝記
プロティノスは、古代ローマ支配下のエジプトの哲学者で、現代の学者からは新プラトン主義の創始者とされている。205年頃に生まれ、270年に没した。主著は『エンネアデス』である。
その生涯、とくにローマで暮らし始めるまでは、あまり正確なことがわからない。ほとんど唯一の重要な同時代の伝記は弟子ポルピュリオスによるが、これは現代的な意味での学術的な伝記ではなく、筆者は正直で正確であろうと努めながらも、師の中に英雄を見ることを望み、知らないことを想像で補うこともあったからである。ポルピュリオスは、プロティノスが皇帝クラウディウス2世の治世の第2年の終わり、66歳で没したと記し、そこから生年を逆算している。エウナピオスは、リュコの生まれと伝えており、これは上エジプトのアシュートとも下エジプトのリュコポリスともいわれるため、家系がエジプト人、ギリシア人、ローマ人のいずれかであったのかは推測にとどまる。ただ、ギリシア語が母語で、ギリシア風の教育を受けたことは確かとされる。本人は、自分の出自や生まれた場所、生まれた日にほとんど関心を示さなかったという。物質への不信から、肖像を描かせることさえ拒んだと伝えられる。
28歳のとき、哲学への愛に燃え立ち、アレクサンドリアへ赴いた。しかし、どの教師にも満足できず、知人の勧めでアンモニオス・サッカスの講義を聴いて、「探していたのはこの人だ」と友人に語ったという。以後11年にわたってアンモニオスに学んだ。39歳のとき、ペルシアやインドの哲学を知りたいとの思いから、皇帝ゴルディアヌス3世のペルシア遠征の軍に身を投じた。だが遠征は失敗し、皇帝が死ぬと、命からがらアンティオキアまで逃げた。40歳でローマに移り、哲学塾らしきものを開いたが、師アンモニオスの教説には長らく触れなかった。弟子には、ポルピュリオスや、看取ることになる医者エウストキオス、元老院議員たち、さらにゲミナら女性も含まれた。26年に及ぶローマ生活のなかで、皇帝ガリエヌスとその妃に尊敬される特権的な地位にあり、カンパニアにプラトンの国制を実現する都市「プラトノポリス」を建てようと計画したが、皇帝の側近の反対で頓挫した。晩年は流行病にかかり、ローマを離れてカンパニアに住んだ。最期はエウストキオスに看取られ、臨終の言葉は「我々の内なる神的なものを、万有の内の神的なものへ帰すように、今私は努めているのだ」とされる。
思想は、プラトンのイデア論を受け継ぎながら、その二元論を克服しようとしたものである。プロティノス自身は独自の説を唱えたという意識はなく、プラトンの正しい解釈だと考えていた。「一者」と、そこから流出するヌース(理性)、そして魂という三つの根本原理を説き、万物は無限の存在である一者から流れ出したものだと論じた。一者は流出によって何も変わらない。それは、太陽自身は変わらず、その光が周囲を照らすようなものだという。人間は一者への愛によって一者に回帰でき、一者と合一して忘我に達することを、エクスタシスと呼ぶ。ごく稀に少数の者にしか訪れないが、彼自身は生涯に4度ほど体験したという。
『エンネアデス』は、253年頃から死の数か月前まで書かれた論文を、弟子ポルピュリオスがまとめたものである。54の論文が、6巻に9つずつ収められている。その思想はアウグスティヌスらにも影響を与えた。著作は中世の西ヨーロッパには伝わらず、ルネサンス期にフィチーノがラテン語に訳し、1492年に刊行されて再発見された。
同じ年に亡くなった人物
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