伝記
エリク14世は、1533年12月13日にストックホルムで生まれたスウェーデン・ヴァーサ王朝の第2代国王(在位1560年-1568年)である。父は国王グスタフ1世、母は王妃カタリーナで、母は彼が2歳になる前に亡くなり、1536年に父はマルガレータ・レイヨンフーヴドと再婚した。最初の教師はドイツ人学者ゲオルク・ノルマンで、のちにフランスのカルヴァン派であるディオニュシウス・ブーレウスが弟ヨハンと共に教えた。外国語と数学に優れ、歴史にも通じ、文章にも巧みで、占星術にも親しんでいたという。1557年にはカルマルなどを封土として与えられ、カルマルに居を構えた。父の意に反して、のちのイングランド女王エリザベス1世への求婚を数年にわたり進め、スコットランド女王メアリーらにも求婚したが、いずれも実らなかった。
1560年、エリザベス1世に求婚しようとイングランドへ向かう船に乗る直前、父の崩御の報せが届いた。直ちにストックホルムへ戻って父を埋葬し、議会を招集した。1561年4月15日にアルボガで開かれた議会では、王族公爵であるヨハンとカールの権力を制限するアルボガ条項が採択された。6月にはウプサラで戴冠し、スウェーデン初の男爵と伯爵を創設した。治世の初めから貴族と対立し、低い家柄の出身であるヨラン・ペッションに全幅の信頼を置いた。貴族への弾圧が、ヨランとエリクのどちらの指示だったかは、判断が難しいとされる。外交ではデンマーク・ノルウェーからの経済的自立とバルト海地域への勢力拡大を目指し、1561年にエストニア北部を占領した。しかし、1563年からの北方七年戦争でポーランド、リューベック、デンマーク・ノルウェーを相手に戦い、国内で不評を買った。
1562年10月、王弟ヨハンが、ポーランド王ジグムント1世の娘カタジナ・ヤギェロンカと、王命に反して結婚し、独自の外交としてリヴォニア征服への援助を約束した。王族公爵が国王の裁可なしに条約を結ぶことを禁じたアルボガ条項に、公然と違反した形であった。エリクはただちに軍勢1万をフィンランド公領へ送り、ヨハンとカタジナを捕らえてグリプスホルム城に幽閉した。1566年には有力貴族ストゥーレ家を弾圧し、当主の息子ニルスを冤罪で死刑にしたが、のち減刑して投獄し、その数日後にはニルスを特使としてロレーヌ公国へ派遣し、縁談を再開させた。一方、1565年から愛人としていたカリン・モンスドッテルとの結婚を決意しており、1567年5月にウプサラへ戻ったニルスをただちに逮捕し、自らの手で刺した。このころには精神疾患が進み、議員団が代理で統治した。一時は国王が自分ではなくヨハンだと考え、ヨハンを釈放したという。
1568年、一時正気を取り戻し、カリンとの間の二人の息子を継承者と認めることを条件にヨハンと和解し、7月4日にカリンと結婚した。翌日カリンは王妃として戴冠した。しかし同月、ヨハンとカールが廃位を計画してエステルイェートランドで反乱を起こし、9月17日にはストックホルムへ迫った。エリクはヨラン・ペッションを差し出し、次に自らの退位に同意した。ヨハンは9月30日にヨハン3世として即位し、1569年1月に議会の承認を得た。
廃位されたエリクは投獄されたが、復位を目指す反乱がたびたび起こり、ヨハン3世は投獄場所を頻繁に変えた。1575年3月にはヨハン3世の求めで死刑判決が下されたが、その後も約2年生き、1577年2月、新しい投獄先のオルビュフス城で急死した。毒殺説もあり、1958年の遺体の調査では、ヒ素中毒で死亡した可能性が高いとされた。
同じ年に亡くなった人物
- アンナ・ファン・サクセン (1577年没)
- アルヴィーゼ・モチェニーゴ1世 (1577年)
- Blaise de Montluc (1577年没)
- アンドレア・アマティ (1577年(推定))
- Scipione Rebiba (1577年)
同じ地域に関係する人物
- アンデシュ・エーケベリ (1813年没)
- Johan Olof Wallin (1839年没)
- オロフ・ルドベック (1740年没)
- Willy Kyrklund (2009年没)
- Fadime Sahindal (2002年没)