HISTORICAL PERSON · 1992年没

バーバラ・マクリントック

アメリカの細胞遺伝学者。トウモロコシの染色体を研究し、トランスポゾンの発見によって1983年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。

生涯
1992年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / ハンティントン)
出生地
アメリカ合衆国(ハートフォード)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

バーバラ・マクリントックは、1902年6月16日にアメリカ合衆国コネチカット州ハートフォードで生まれた細胞遺伝学者である。医者の父トーマス・ヘンリー・マクリントックとピアノ教師の母サラの4人の子の3番目で、早熟な「一人で何でもできる子」と呼ばれた。まだ父の稼ぎが少なかったため、3歳頃から学校に上がるまでニューヨークのブルックリンのおば夫婦のもとで育てられ、鮮魚の行商に付き添った日々を後に「大変楽しかった」と振り返っている。両親は子の自主性を重んじ、宿題を出さないよう学校に申し入れたり、1学期の不登校を認めたりしたという。

ブルックリンの学校で科学に興味を持ち、大学進学を望んだが、母は娘の婚期が遅れることを心配して反対した。それでも従軍先から帰った父の助けで、1919年にコーネル大学へ進み、植物学を専攻した。授業料は免除となった。講義を選んで出席したため学部時代の成績はあまり良くなかったが、1921年に初めて遺伝学を学び、遺伝学者ハッチソンから大学院向けの遺伝学コースに誘う電話を受けたことが、遺伝学に留まる決め手になったと後に語っている。1923年に学士、1925年に修士、1927年に博士の学位を取ったが、当時のコーネルでは女性が遺伝学を専攻できず、修士号と博士号は植物学のものだった。

マクリントックは、育種の専門家と染色体の専門家を集めたトウモロコシ研究のチームをつくり、酢酸カーミン溶液で染色体を染める技術を開発して、トウモロコシの10本の染色体の形態を初めて明らかにした。1931年には大学院生のクレイトンとともに、減数分裂のときの染色体の乗換えと遺伝形質の組換えが関係していることをトウモロコシで実験的に示した。この研究はモーガンの勧めと推薦で米国科学アカデミー紀要に早く掲載され、ドイツでも同様の研究が進んでいたため、その計らいがなければ栄誉は彼女に与えられなかった可能性が高いとされる。

その後は全米研究評議会の奨学金で、ミズーリ大学やカリフォルニア工科大学などを渡り歩いた。ミズーリ大学ではスタドラーのX線による突然変異の技術を応用し、1932年には環状染色体を観察した。1933年にはグッゲンハイム奨学金でドイツへ渡ったが、ナチス・ドイツの政策で親しい研究者が迫害されて居心地が悪く、約6か月でコーネル大学に戻った。帰国後も職は得られず、モーガンの働きかけでロックフェラー財団から1934年10月から1年間の資金を受けた。女性ゆえに評価されなかったという解説が多いが、伝記を書いた科学史家のコンフォートは、ケラーの伝記は大げさだと述べている。

1936年から1941年までミズーリ大学で助手を務め、1942年からはワシントン・カーネギー協会の遺伝子部門であるコールド・スプリング・ハーバー研究所の研究員となり、1967年まで在籍した。トランスポゾンの存在を発見したのはDNAの構造が判明する以前で、先駆的すぎる学説は長らく学会で無視されたが、のちに分子生物学の発展で証明された。1970年にニクソン大統領からアメリカ国家科学賞を、1982年に利根川進とともにルイザ・グロス・ホロウィッツ賞を受け、1983年に81歳でノーベル生理学・医学賞を受賞した。知らせを聞いて「まあ!」とつぶやき、いつものようにトウモロコシ畑へ戻ったと伝えられる。生涯独身で、1992年9月2日に没した。

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