伝記
デヴィッド・ボームは、1917年12月20日、アメリカ合衆国ペンシルベニア州のウィルクスバリに生まれた物理学者である。ハンガリー系の父とリトアニア系の母を持つユダヤ系の家庭で育ち、家具屋を営む父に主に育てられた。1939年にペンシルベニア州立大学を卒業し、カリフォルニア工科大学で1年を過ごしたのち、カリフォルニア大学バークレー校でロバート・オッペンハイマーの下で理論物理学を学んで博士号を得た。この頃、物理学だけでなく急進主義の政治にも傾き、1930年代後半の多くの若い理想主義者と同じく別の社会モデルに惹かれて、青年共産主義者同盟などの団体で活動した。これらはのちにFBIから共産主義のレッテルを貼られた団体である。
第二次世界大戦中、マンハッタン計画はバークレーの物理学研究を活用した。オッペンハイマーは1942年、ロスアラモスの研究所にボームを誘ったが、友人のジョセフ・ワインバーグにスパイの疑いがかけられていたため、ボームは政治活動から離れていたにもかかわらず、保安基準を満たせなかった。ボームはバークレーに残って教え、1943年に博士号を得た。皮肉にも、彼が確立した陽子と重陽子の衝突の散乱計算が計画に有用だと分かると研究所に登用されたが、保安確認がないため自分の業績に近づくことも、論文を書くことさえも禁じられた。ボームはオークリッジの施設で、濃縮ウランを得る同位体分離装置の理論計算を行った。その濃縮ウランは1945年に広島へ投下された原子爆弾に用いられたとされる。
戦後はプリンストン大学の助教授となり、アインシュタインとともに研究を進めた。しかしマッカーシズムの時代が始まった1949年5月、下院非米活動委員会に過去の社会主義者との関わりを問われ、修正第5条を理由に検証を拒み、同僚に証拠を示すことも拒んだ。1950年に議会での尋問に答えなかった罪で告発・逮捕され、1951年5月に無罪となったが、すでにプリンストン大学は停職処分を課しており、契約は更新されなかった。アインシュタインが助手として望んだものの実現せず、ボームはサンパウロ大学の物理学の職を得てブラジルへ発った。その後イスラエル工科大学で2年を過ごし、ここで妻サラルと出会った。1957年にイギリスのブリストル大学へ、1961年にロンドンのバークベック・カレッジの教授となった。
研究では、大学院生の頃にプラズマの理論からボーム拡散を発見し、1951年の最初の著書『量子論』はアインシュタインらに好意的に迎えられた。だが通常の量子力学に満足できなくなり、独自のボーム解釈を発展させた。その研究とEPRパラドックスは、ジョン・スチュワート・ベルの不等式の研究を促す主要因となった。1959年には学生のヤキール・アハラノフとともにアハラノフ=ボーム効果を発見し、ベクトルポテンシャルが量子物理的に実在することを初めて示した。同じ年、妻が薦めたクリシュナムルティの本に触れ、自らの量子力学の考えと彼の哲学が噛み合うことに感銘を受け、二人は25年以上にわたる親友となった。
さらに内在秩序と外在秩序の考えを発展させ、カール・プリブラムとの共同研究では、脳をホログラムのように働くものと捉えるモデルの確立を助けた。後年は思考そのものを問題の根源と考え、対等な立場で語り合うダイアログを提唱して、社会の孤立や断片化を乗り越える助けになると述べた。1987年に引退するまで量子物理学の研究を続け、1990年に王立学会特別研究員に選ばれたが、1992年10月27日に心筋梗塞で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- アレクサンデル・ドゥプチェク (1992年没)
- ゾーヤ・ヴォスクレセンスカヤ (1992年没)
- ディック・ヨーク (1992年没)
- ヴィリー・ブラント (1992年没)
- ジャック・アーノルド (1992年没)
同じ地域に関係する人物
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- アルトン・エリス (2008年没)
- ジョージ・サヴィル (初代ハリファックス侯) (1695年没)
- アレクサンダー・フレミング (1955年没)
- トマス・キャンピオン (1620年没)