伝記
アイザック・アシモフは、1920年1月2日、当時のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のペトロヴィッチで、父ユダ・アロノヴィチと母アンナ=ラヒリ・ベルマンの子として、ユダヤ系ロシア人のイサーク・ユードヴィチ・オジモフとして生まれた生化学者、作家である。生年月日は記録が不十分で、暦の違いもあって不確かだが、誕生日がこれより遅いことはない。3歳のとき、家族とともにアメリカ合衆国に移住し、ニューヨークのブルックリンで育った。10歳のころ、SF雑誌でSFファンになった。父が経営する店にはパルプ・マガジンが置いてあったが、読むことを許されなかったため、雑誌の名に「サイエンス」の語が含まれることから教育的だと父を説き伏せ、許しを得たという。家は裕福ではなかったが学業は優秀で、飛び級で高校を卒業し、1935年に15歳でコロンビア大学に入学した。
1938年に初めての作品をSF雑誌に持ち込み、採用はされなかったが、編集者ジョン・W・キャンベルの指導を受けるようになった。1939年に雑誌に短編が載って、作家としてデビューした。1939年に大学を卒業し、同大学の大学院で化学を専攻した。この頃にすでに、『われはロボット』に収められるロボット工学三原則の作品や、ファウンデーションシリーズ、出世作『夜来たる』など、初期の代表作を発表していたが、専業作家になることは考えず、大企業に就職して研究員となることを目指していた。1942年にガートルードと結婚し、大戦の勃発を理由に大学院を休学して、フィラデルフィア海軍造船所に技術者として勤務した。ここで、ロバート・A・ハインラインらと出会った。終戦直後に徴兵され、1946年に大学院に復学した。1948年に博士号を取得したが、就職口はなく、1949年からボストン大学医学部の生化学の講師になった。
1950年に最初の単行本『宇宙の小石』が出版され、『われはロボット』など、過去に雑誌で発表した作品の書籍化が相次いで、印税でも収入を得られるようになった。1953年から翌年にかけて、SFミステリの『鋼鉄都市』を発表した。1955年に准教授になり、終身の在職権を得たが、執筆への傾倒が進んで上司らの不興を買い、1958年に肩書きだけを保持することで合意して、教壇を降りた。その後は専業の作家、講演者となって、化学以外のノンフィクションにも活動を広げた。1979年7月にボストン大学の教授に昇任した。1957年のスプートニク・ショックが執筆を後押しし、1961年の『知識人のための科学入門』は、全米図書賞のノンフィクション部門の候補になった。1970年ごろから『黒後家蜘蛛の会』の連載を始め、1972年の長編『神々自身』で、ヒューゴー賞とネビュラ賞を受賞した。1982年には、ファウンデーションシリーズの30年ぶりの新作がベストセラーとなり、同シリーズとロボットシリーズを統合した。
1970年から妻子と別居し、ニューヨークに移り住んだ。1973年に離婚し、同年、心理分析医のジャネットと再婚した。アシモフは「仕事中毒」で、飛行機嫌いだった。生涯で飛行機に乗ったのは2度だけである。狭くて閉ざされた空間を愛し、地下室や屋根裏部屋でタイプライターに向かう時間が無上の喜びだったと自ら語っている。人道主義者で、合理主義者であり、民主党の強い支持者だった。著作は500冊以上に及ぶ。1992年4月6日、後天性免疫不全症候群で死去した。1983年の心臓バイパス手術の際の輸血が原因であり、死因は、死の10年後にジャネットが編集した本で明らかにされた。
同じ年に亡くなった人物
- ヤン・キョンジョン (1992年没)
- ガブリル・イリザロフ (1992年没)
- トニー・アッカルド (1992年没)
- ジョルジュ・ドルリュー (1992年没)
- ケネス・マクミラン (1992年没)
同じ地域に関係する人物
- アーヴィング・バクスター (1957年没)
- グロリア・グレアム (1981年没)
- ジェイコブ・ノイズナー (2016年没)
- ジョー・サイモン (2011年没)
- ジャック・デンプシー (1983年没)