HISTORICAL PERSON · 1576年没

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ

盛期ルネサンスのイタリアの画家で、ヴェネツィア派で最も重要な画家の一人。肖像・風景・神話・宗教とあらゆる分野に秀で、奔放な筆使いと独特の色彩感覚で後世の西洋絵画に大きな影響を与えた。

生涯
1576年没
死亡地
イタリア共和国(ヴェネツィア県 / ヴェネツィア)
出生地
イタリア共和国(ピエーヴェ・ディ・カドーレ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ヴェネツィア県)

伝記

ティツィアーノ・ヴェチェッリオは、盛期ルネサンスのイタリアの画家で、ヴェネツィア派で最も重要な画家の一人である。ヴェネツィア共和国ベッルーノ近郊のピエーヴェ・ディ・カドーレの出身で、生地の名から「ダ・カドーレ」とも呼ばれた。同時代の人々には、ダンテの『神曲』の一節を借りて「星々を従える太陽」と称された。肖像、風景、古代神話、宗教と、あらゆる分野に秀で、筆使いと色彩感覚に特徴のあるその画法は、次の世代以降の西洋絵画にも大きな影響を与えた。

正確な生年月日は伝わっていない。晩年にスペイン王フェリペ2世へ宛てた書簡には1474年生まれとあるが、これはまずありえないとされる。今日では1490年前後とする研究者が多く、メトロポリタン美術館やゲティ研究所は1488年ごろとしている。父グレゴリオはピエーヴェ・ディ・カドーレ城の管理者で地方鉱山の責任者でもあり、評議員や軍人としても知られ、母はルチアといった。祖父は公証人で、一家はこの地方の名家であった。

10歳から12歳ごろ、弟フランチェスコとともに、画家の内弟子になるためヴェネツィアの叔父のもとへ送られた。一家の友人であった画家セバスチアーノ・ツッカートの手配で、当時ヴェネツィア有数の画家だったジョヴァンニ・ベリーニのもとで修行し、ジョルジョーネ、ロレンツォ・ロット、セバスティアーノ・デル・ピオンボら年の近い芸術家たちと出会った。ティツィアーノはやがてジョルジョーネの助手を務め、二人は再建されたドイツ商人館の外装を飾るフレスコ画の制作にも携わった。この時期の二人の作品の判別は今も学術的論争の的で、ジョルジョーネ作とされていた作品がティツィアーノ作に改められたことも、その逆もあった。1510年にジョルジョーネが夭折した後も、ティツィアーノはすでに大胆で表現力豊かな独自の作風を確立していた。1511年にはパドヴァで、アントニオの生涯を題材にしたフレスコ画などを描いた。

1512年にヴェネツィアへ戻り、カナル・グランデ沿いに工房を構えた。1513年には専売仲介特権サンセリアをドイツ商人館から得て、さらにベリーニが未完のまま残したドゥカーレ宮殿大議会堂の絵画を完成させる役を任じられた。1516年にベリーニが死去すると、ヴェネツィア派に肩を並べる画家はいなくなり、以後60年にわたり第一人者であり続けた。同年、フラーリ聖堂の祭壇画『聖母被昇天』に着手し、非凡な色彩による三階層の大作で大評判を得た。1519年から1526年にかけて描いた『聖会話とペーザロ家の寄進者たち』は、ルネサンス古典様式の頂点の一つとされる。1530年の『聖ペテロの殉教』は、バロック様式の萌芽ともみなされたが、1867年に砲撃で焼失し、模写と版画だけが残る。フェラーラ公アルフォンソ1世のために描いた神話画群も名高い。

私生活では、1525年に重病となった内縁の妻セシリアと、二人の息子を認知するため正式に結婚した。セシリアは回復して二人の娘を産み、そのうち成人したのはラヴィニアだけであった。彼女は1530年8月、ラヴィニアの出産の際に亡くなった。ティツィアーノは故郷から妹オルサを呼び寄せて家事を任せ、次男オラツィオをかわいがり、のちに助手とした。1526年ごろから作家のピエトロ・アレティーノと深く親交した。1538年、政府はドゥカーレ宮殿の絵画制作の遅れに不満を持って賃金の返還を求めた。1576年8月27日に没した。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物