HISTORICAL PERSON · 1991年没

アイザック・バシェヴィス・シンガー

ポーランド生まれのアメリカの作家。イディッシュ語の作家として初めてノーベル文学賞を受賞し、動物の権利擁護の先駆者としても知られた。

生涯
1991年没
死亡地
アメリカ合衆国(フロリダ州 / マイアミ)
出生地
ポーランド共和国(ラジミン)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(フロリダ州)

伝記

アイザック・バシェヴィス・シンガーは、1903年11月11日、当時ロシア帝国領だったワルシャワ近郊に生まれ、のちにアメリカに移ったイディッシュ語の作家である。生まれたときの名前は、イツェク=ヘルシュ・ジンゲルといった。父は敬虔派(ハシディズム)のラビで、判事でもあり、ワルシャワの敬虔なユダヤ教徒の精神的な指導者だった。母バトシェバは、ラビの娘で、筆名のバシェヴィスは「バトシェバの息子」という意味である。兄イスロエル・イェホイシュアも高名な作家で、弟に最初の、そして最大の文学的影響を与えた。ワルシャワの貧しいユダヤ人街と、周辺の村で、イディッシュ語に囲まれて育ち、1920年にユダヤ教の神学校に入ったが、やがて故郷に戻り、ヘブライ語の教師として糊口をしのいだ。ラビを養成する学校の教育は、彼に大きな影響を残したが、同時に文学にも惹かれ、文壇に迎え入れられることを熱望するようになった。1923年にワルシャワに移り、兄が編集する雑誌で校正者として働いた。

1932年、処女作をポーランドで出して、文壇デビューを飾った。中世のイディッシュ年代記に擬したスタイルで、17世紀の偽メシア、シャブタイ・ツヴィをめぐる出来事を描いた小説である。1935年に兄を追ってアメリカに渡った。反ユダヤ主義を逃れる目的もあった。このころ、最初の妻ラヘルと離婚し、ラヘルは息子イスラエルを連れて、モスクワへ、次いでパレスチナへ移った。シンガーはニューヨークに居を定め、イディッシュ語の新聞『フォルヴェルツ(前進)』で、ジャーナリストやコラムニストとして働きはじめた。執筆はほとんどイディッシュ語だけで行った。1940年にドイツ移民のアルマ・ハイマンと再婚し、1943年に米国の市民権を得た。

1940年代にヨーロッパから多数の移民が米国に渡るなかで、シンガーの文名は徐々に高まった。イディッシュ語の話し手はホロコーストでほぼ死に絶え、戦後、この言語は「死んだ言語」と見なされがちだったが、シンガーは、その力を信じ、読みたいと熱望する読者が多数いることを知っていた。彼の文学は、中世のイディッシュ民話から、魔術や神秘、伝説などの題材を取りながら、現代的なアイロニーを盛り込んだところに独創性がある。生涯に18冊の長編小説と、14冊の童話を出し、無数の回想録や随筆を書いたが、本領は12冊以上の短編集にある。英語による最初の短編集は1957年に出た。表題作は、1952年にソール・ベローによって英訳された。ゲットーや村で、貧困と迫害のなかに生きる東欧のユダヤ人社会を舞台にし、盲信や迷信が素朴な信仰と渾然一体となった世界を描いた。

ベローの翻訳によって、アメリカの読者から幅広い関心を集め、作品は相次いで英訳された。1970年に全米図書賞の児童書部門、1974年に小説部門で受賞し、アメリカの第一線の作家と肩を並べた。ホロコーストの生き残りを描いた『敵、ある愛の物語』や、フェミニスト小説の短編『イェントル』は、映画化された。1978年にイディッシュ作家として初めてノーベル文学賞を受け、世界の文学者から不滅の名声を得た。しばしば性的な話題を取り上げたため、敬虔なユダヤ教徒からは顰蹙を買うこともあった。1991年7月24日、脳卒中のため、フロリダ州マイアミで病死した。「動物にとって、毎日がトレブリンカだ」と述べ、亡くなるまでの35年間、熱心な菜食主義者として知られた。

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