HISTORICAL PERSON · 1991年没

グレアム・グリーン

イギリスの小説家。在学中の1926年にカトリックへ改宗した。少年期から愛読したスパイ小説の影響もあり、「裏切り」を主題とした。

生涯
1991年没
死亡地
スイス連邦(ヴォー州 / コルソー)
出生地
イギリス連邦(バークハムステッド)
出典
世界地図
スイス連邦(ヴォー州)

伝記

ヘンリー・グレアム・グリーンは、1904年10月2日に生まれ、1991年4月3日に没したイギリスの小説家である。ハートフォードシャー州バーカムステッドで生まれ、父はバーカムステッド・スクールの校長だった。幼少期は反抗的な少年で、学校に通う間、父が校長であることに苦しみ、スパイ小説家ジョン・バカンの小説を愛読した。このため、「裏切り」というテーマは早くから植えつけられていたとされる。

オックスフォード大学に進学し、在学中の1926年に、イングランド国教会からカトリックに改宗した。1920年代には知識人のカトリックへの改宗が増えており、チェスタートンやイーヴリン・ウォーも改宗している。在学中の18歳のとき、第一次大戦に敗れて一部の地域が占領されていたドイツの大使館に雇われ、対仏諜報を行ったとされる。大学を出ると「タイムズ」紙に勤務して、ジャーナリストとして活躍し、1929年に『内なる私』で作家としてデビューした。代表作に『スタンブール特急』(1932年)、『第三の男』(1950年)、『ハバナの男』(1958年)などがある。『ブライトン・ロック』(1938年)と『権力と栄光』(1940年)で作家としての地位を確立し、『事件の核心』(1948年)と『情事の終り』(1951年)で世界的な名声を得た。作品は戯曲や児童文学にも及び、映画評論家としても高い評価を得ていた。

『第三の男』は、映画化を前提に、プロデューサーのアレクサンダー・コルダから「キャロル・リード監督のために、ウィーンを舞台にした物語を書いてほしい」と依頼され、小説と脚本を執筆したものである。映画は大ヒットし、映画史上屈指の名作とされた。ただし、グリーンの原作では、結末は単純なハッピー・エンドで、監督のリードが独自の演出で「苦い悲劇」にしたという。映画の印象が強いため、原作も名作と扱われているが、過大評価だと、原作と映画を詳しく比較したミステリ評論家の直井明は述べている。

思想的には、1930年代に知識人の間で共産主義への期待が広がるなか、27歳で共産党に入党した。同時代に共産主義に共感を示したオーウェルやオーデンらは、のちにソ連の実態を知って離れていったが、グリーンは晩年まで共産主義への共感を持ち続けた、数少ない作家であった。1984年に、マーティン・エイミスが80歳の彼にインタビューした際には、「確信を持った共産主義者と、確信を持ったカトリックの信者の間には、ある種の共感が通っている」と語った。『おとなしいアメリカ人』(1955年)では、異郷の地ベトナムで自由の理想を掲げるアメリカ人と、裏切りや殺人が横行する現実を対比して描いた。グリーンはこの小説により、アメリカへの入国を拒否されたという。

「スパイの経験のある作家」としても有名で、第二次大戦の勃発時には、イギリスの諜報機関の正式なメンバーとなり、のちに最大の裏切り者といわれたキム・フィルビーの直属の部下として、西アフリカやイベリア半島で活動した。しかしフィルビーの権力闘争を見て、1943年に辞任している。のちの『ヒューマン・ファクター』(1978年)は、スパイ小説の傑作として名高い。1976年にはアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受賞した。1937年には、子供向き映画に関する批評が世論の怒りを招き、映画会社に告訴されて敗訴し、雑誌は廃刊になった。カトリックの倫理をテーマにした作品を多く発表し、長年ノーベル文学賞の有力候補といわれ、1950年に候補にもなったが、受賞はかなわなかった。

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