伝記
ベンヴェヌート・チェッリーニは、ルネサンス期イタリアの金細工師、彫刻家、音楽家であり、奔放な自伝でも知られる。1500年11月3日にフィレンツェで生まれ、1571年2月13日に没した。ルネサンス後期のマニエリスムを代表する芸術家とされる。
両親は18年の結婚生活の末に初めて子をもうけ、彼は二番目の子だった。父はメディチ家に仕えた技師で、楽器の製作者でもある音楽家であり、息子を音楽に進ませようとしたが、15歳のとき渋々ながら金細工師の徒弟に出すことに同意した。16歳の頃には若い仲間との乱闘でフィレンツェで注目を集め、6か月の追放となってシエナで暮らした。その後ボローニャで角笛とフルートの腕を上げるとともに、金細工の腕も磨き、ピサなどを経て、19歳でローマに出た。ローマでは銀の小箱や燭台、花瓶などで教皇クレメンス7世に認められ、教皇庁の楽師にも任じられた。ミケランジェロの壁画などを模写し、その才能を終生崇拝していたという。
1527年に神聖ローマ皇帝カール5世の軍勢がローマを攻めると、サン・タンジェロ城の防衛に加わり、その働きが教皇の役に立った。本人の語るところでは、敵将の一人を撃って傷つけたという。翌1528年からミケランジェロとの交遊が始まる。その後はメダルの制作に打ち込み、ローマ帰還後は宝飾品や教皇庁造幣局の型も手がけた。一方で気性が激しく、1529年に兄が殺されると、その仇を討ち、のちにも殺人を重ねたが、有力な枢機卿らの働きかけで赦免を得ている。1535年にはフィレンツェでアレッサンドロ公の貨幣鋳型の注文に応じ、4種を制作した。
1538年頃、教皇の三重冠の宝石を横領したという、どうやら濡れ衣の容疑でサン・タンジェロ城に幽閉された。脱走して再び捕らえられ、厳しい扱いを受けて、日々処刑を覚悟する状態だったという。1539年には獄中で、ダイヤモンドの粉を盛って殺されかけたが、粉は偽の宝石だったので失敗したと伝わる。フェラーラのデステ枢機卿らのとりなしで釈放され、感謝の印に立派な杯を贈った。その後、1540年からフランス王フランソワ1世に招かれて5年間パリなどに滞在し、フォンテーヌブロー宮殿のために作品を残した。「ニンフの浮き彫り」や、のちに盗難にあって2006年に発見された「黄金の塩入れ」も、この時期のものとされる。フランスでも職業上の衝突や暴力沙汰が絶えなかったが、数年の充実した制作ののち帰国した。
帰国後はメディチ家のコジモ1世に迎えられ、宮廷彫刻家として、フィレンツェの家と年200スクードの俸給を与えられ、自身の胸像と「メドゥサの首を持つペルセウス」の制作を依頼された。65歳で初めて結婚し、3児を残した。58歳になって自叙伝を書いたが、ヴァザーリの『芸術家列伝』に刺激を受けたのではないかと推測されている。13歳の筆記者に口述したその型破りの文体は、綴りや文法にこだわらず、一芸術家の奔放な生き方だけでなく16世紀イタリアの風俗を生き生きと伝える。文人ベネデット・ヴァルキに校正を求めたところ、会話体による純な文体は削除や訂正をしないほうがよいとして、手直しを断られた。対抗改革後のイタリアでは出版される当てがなく、草稿は18世紀に学者コッキによって発見されて1728年に公刊された。40年後にバレッティが再刊した版でフランスでも知られるようになり、ルソーやスタンダールに熱烈に支持され、ゲーテは1803年にドイツ語訳を刊行し、ベルリオーズはオペラを作曲した。
同じ年に亡くなった人物
- Odet de Coligny (1571年)
- ヤン・ブラホスラフ (1571年没)
- メジンザーデ・アリ・パシャ (1571年没)
- ヨアヒム2世 (ブランデンブルク選帝侯) (1571年没)
- マシュー・ステュアート (第4代レノックス伯) (1571年没)
同じ地域に関係する人物
- フォスコ・マライーニ (2004年没)
- シルヴェストロ・レーガ (1895年没)
- ルイーゼ・ツー・シュトルベルク=ゲーデルン (1824年没)
- ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ (1472年没)
- フランチェスカ・カッチーニ (1640年没)